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2025.05.15 - 
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親密性の変容/アンソニー・ギデンズ

2009.06.22 - 社会学
他者の代替不可能性にかねてから興味を持っていたので、本書は、親密性というものが歴史的にどのように変容していたのかという歴史社会学的な視点で論じられているでいるのであろうという目論見のもとで読みました。

目次に、同性愛者の問題についても触れられていたので更に興味を持ったのです。

ギデンズのいう親密な関係性が漠然としていてわかりにくい。


まあでも、生殖とセクシャリティがどう切り離されていったか、女性同性愛者のくだりと女性の性の革命、男らしさ女らしさなど読み物としては面白みがあると思った。

その場限りのセクシャリティを論じたところで、同性愛者の節操のなさが、異性愛者のセクシャリティのあり方を先取りしている等々の議論も面白みがあったかな。


ただ民主制とセクシャリティとか、モダニティがどうとか、主張がわかりにくいのと、そういうマクロ社会学や文明論的な話と、心理学的な話が、章をまたがっているとはいえ、ごちゃごちゃしている印象をうけた。結局、このおっさんは何がいいたいんやろうと・・・


要約はこちら

http://www.arsvi.com/b1990/9200ga.htm


『有毒な親』は読んだことあってへ~って思ったし、共依存の社会学的意味もまあまあおもろかった。


でも、フーコー、フロイト、マルクーゼ等々、ちゃんと読んだことないから、そのへん読んでかた読んだら、もっとすっきりわかるんやろなって思った。

はい、勉強不足です・・・


さ、頑張ろうっと~


この本について、内容まとめてないし、エッセイも書いてないけど、またやろか。

正直、あんまり、好きな論のもっていきかたではなかった・・・
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社会学講義/富永健一

2009.05.04 - 社会学
社会学について漠然としたイメージしか持ってなかったのですが、本書を読んである程度、まとまったイメージをもつに至りました。

社会学の学問領域と諸分野を系統立てて紹介していて、入門書としては最適かなと思います。

特に日本における社会学の研究および社会学史が充実していて、欧米の思想に偏ったものではないのが、特徴だと思います。

著者の富永先生はパーソンズの研究者だったらしく、全体的にパーソンズ的な機能主義的な考えを重視しているなというのは読んでいてわかるので、彼のセンスというか、好みが反映されているなということは念頭において読んだほうが無難でしょう。

ミクロ社会学についての記述も基本的にいかにマクロ社会学と接点をもつか、結びつきうるかという観点で書かれている部分も多く、また総じてミクロ社会学についての記述が少ないので、それについては別の本で読むべきだと思います。


俺自身は、哲学と社会学に興味があるので、おのずと社会学も、ミクロ社会学的なアプローチが自分の性に合ってるなというのはかねてから思っていたから、あまり社会システム理論は好きではないんだけど、ルーマンの「複雑性の縮減」の考えはおもしろいなって思った。

実証主義か理念主義か。

社会学と哲学に進むものにとって葛藤になるのは、専門コースとしては社会学に進むものにとって、問題はここだと思う。現象学的社会学のような思弁的なものばかりやってるわけにはいかないんだろうなあ。

あと、農村とかのフィールドワークとかしょうもないことやってる人多いけど、一体何なんだろうって思ってんだけど、農村社会学って社会学の正統な、いやもはや王道を行ってるものだとは知らなかった笑

理論社会学が王道だと思ってたけど、社会学史的に考えたら(特に日本の場合は)、案外そうでもないのね笑


いや、今まで社会学について、その体系について、自分の興味に即した断片的なものしか知らなかったけど、本書のおかげで、ある程度がっきりしてよかった。

説明も平易でわかりやすいし、寝る前にぼーっと読む程度でもすこぶる理解できるし、オススメの一冊である。

教養主義の没落/竹内洋

2009.04.16 - 社会学
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竹内洋先生の『教養主義の没落』を読みました。

いろいろ感想があるんだけど、

まず、俺はあんまり日本の知識人、論壇について詳しくなかったので、歴史社会学的アプローチで教養主義やエリート学生文化が明らかにされていくうちに、特に大正、昭和初期のそれが概観されていて、とても勉強になった。

大正教養主義、マルクス的教養主義・左傾、軍部による弾圧、教養主義、マルクス主義の復活、全共闘による教養主義の攻撃、高等教育のマス化による教養主義の没落とサラリーマン文化への適応。といった学生文化を中心に、それがいかに移りかわっていったのか、明瞭に論が展開されていて、おもしろかった。


旧制高校から帝国大学という学歴貴族における「旧制高校的」文化と、新制高校や私立大学や非帝大における「新制高校」的文化の狭間をいきた文化人の葛藤やせめぎあいも、わかりやすかった。


帝大文学士とノルマリアンの比較もブルデューの理論が使われていて理解しやすく、岩波書店の果たした役割等々、目下のところ(日本で)学者になろうと考えている自分にとっては、知っておくべき事実であろうと思う。


という本書全体の概説的な感想はそれまでにして、本書で「教養主義者」と呼ばれているものが、まさしく自分にあてはまるものだと思い、読んでいて、はらはらさせられるものがあった。

本書86ページに「教養主義とは、歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心とした人格主義である。」としている。それは修養主義的に読書されるものである。(「農村的」)

この点に関して、私は特に人文系の読書を通じて人格を完成させるという大義名分のもとで読書をしているわけではないものの、直接的な目的ではないが、結果的に意図せず導かれうるものである可能性をもつ、つまり読書の蓄積によって、自分の考えに「深み」が増すものであることは信じている。しかもそれは大衆文学ではなく、もっぱら、文学作品や哲学書を通じてでである。

しかも、それはまさしく、修養主義的に、耐え忍んでたくさん読むべきだと考えている点も共通するところがある。

さらに、帝大文学士の教養主義者が、「文学部」というひとつの「表象」、「ブランド」を誇りにする心理、すなわち、文学的なもの以外の不外部世界との隔絶、または超越を通じて、それらと差異化するという傾向がある。わたしは「パンのために」学問するのではないという自負が、学問、文学の道へと進むもののRasion D'etreを支えたのであろう。

私も常々、政治学や経済学、法学などの「実学」を軽視して、哲学や文学、理論社会学を重んじている傾向と一致しているし、「文学部的」なものに威厳を感じているし、「大学に入ったのは勉強するためであって、働くためではない」と家族に公言しているのと一致する。哲学書や文学作品の威信を信じてやまないし、なぜ多くの人は哲学を勉強しないのだろうかと疑問をこぼすほどである。

本書を読んで、自分は学生文化の正当な文化は教養主義的なものだと信じてやまなかった、ほかの大勢のものがそれから「逸脱」しているものだと信じてやまなかったのだが、現代の主要な学生文化からすれば、自分が時代錯誤的であることが判明したのである。勉学する自分、その際に自明視して疑わなかった教養主義を、客体視させてくれるきっかけを同書は与えてくれた。

しかしながら、本書に述べられているには、教養主義が学生文化の規範文化であったころ、たくさんの本を読んで、教養豊かであろうとすればするほど、それが成功者とされていたわけだから、そうでないもの、つまり、修養主義の中で、「修行のたりないもの」にとっては、象徴的暴力空間でありえたことにはうなずける。

それを転覆しようと、マルクス主義の文献のみを読むべきものとし、その他の哲学書を読んでいるものを「旧い教養」として蔑むのは、まさしく教養主義の転覆を図るものであるし、しかし、それがマルクス主義的なものの文献の読書を前提とし、西洋の一文化からでたものに礎を持っている点で、彼らが攻撃をしている大正的教養主義に依存関係あるのだ。

さらに、知的階級という階級がまだ明確だった全共闘時代における、その運動は、「団交」に教授を召喚して、無理難題をおしつけ、恥をかかせるという、教養主義への、特に学歴貴族のエリート主義に対するルサンチマンに基づくものである。

以上のように、学生は「教養とはなにか」「知識人とはいかにあるべきか」といったような問いを絶えず問い続け、煩悶としてきた中で、「教養主義」はさまざまな天秤にかけられることになった。

しかし、70年代以降、大学のマス化が進むにつれて、学生はそのような問いを立てなくなった。そのような問いを醸成させる精神的土壌は大学からはなくなった。

それゆえ、今日における、私のような「教養主義者」は教養主義そのものを疑うことを知らず、自明視する結果となったのである。なんとも恥ずべきことであると思う。


だからといって、現代の大学から自己を磨くこと、完成させることは消え去ったわけではない。

友人関係やバイトなどの人との交際からいろんなものを「キョウヨウ」として学ぶのである。

就職活動をしている人がどこどこに人事部にえらいさんがすごい、インスパイアされる云々たれているのを耳にして、それは就職に際する適応、一種の儀礼的なものさえ感じていたのだが、本書を読んで、それは人との交際いもまれることで、人文書から得るもの以上に、それをキョウヨウとして受容することに重きを置くキョウヨウの学生文化の、サラリーマン文化への適応という主流の文化装置によるものであるこという解釈をえ、多いに納得のいくものであった。


学生文化の移り変わりを、社会の変化とともに抽出した、自己を客体視させてくれる「教養書」である。

自己言及的で刺激的であった。

職業としての学問/マックス・ウェーバー

2009.04.11 - 社会学

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マックス・ウェーバーの『職業としての学問』を読みました。

今のところ、将来は学問を職業にしようと考えているので、タイトル見て、読んでおこうと思いました。


大学での教職につく難しさは、昔も今も変わらないのだなと。ドイツとアメリカの大学教員の採用の制度の違いや、徐々にドイツがアメリカ化してきて、昔ながらのドイツの教授と意見が合わなかったりした背景が興味深かった。

どの教官も自分が採用されたときのことは嫌な思い出で語りたくはないらしい。運やコネが大きな要因となっていたようで、自分よりも実力のある人たちを差し置いて、自分が採用されたり、正教授に昇進したりするのが、気のいいものではないらしい。

このへんのくだりは、前にとある他大学の准教授に酒の場で聞いた話と一致するので、官僚制でアメリカの大学の制度を取り入れた日本の大学であるが、この手の問題は大学という制度につきものなのであろうか。

自己を滅して、学問(職業)に専念すること。

学問の進歩は、自分の考えが常に時代遅れになる 宿命から発し、それを欲するところからはじまる。

教師は指導者になるべきではない

等々、もっと年を重ねてから読み返すと、違った読みができそうな箇所があって、また読みたいと思う。


この演説は、マルクス主義への傾倒、またはニーチェによる文化価値の喪失などの、現実の社会の否定という雰囲気のもとで、理想や体験、新たな世界観、指導者を欲した青年に向けられたものである。

「時代の宿命に男らしく堪える」ことをウェーバーは要求するのである。

そして、時代の宿命に目を伏せ、「大きな物語」を欲する青年に、ウェーバーが「日々の要求に従おう」といって講演を終えているのは印象的である。

学問は自らの前提を理論的に証明することはできない、ただ学問の限界内において事物を明確にすることが探求されるに意義があるのであり、生きる意味を与えてくれるものではないのだ。

大衆の反逆/オルテガ・イ・ガセット

2009.03.05 - 社会学

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オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を読みました。

第一世界大戦後のヨーロッパ社会を論じている。

第2部が政治論、国家論なので、大衆の分析に重点を置いて論じているのは、第1部である。

オルテガの生涯、つまり、彼の政治への情熱を知らなかったので、本書に対して持っていた漠然としたイメージとは大きく異なり、大衆を冷笑的に一歩引いた視点から分析しているのではなく、大衆に積極的に関わり、彼らを教育し、「生の計画」に基づいた、生命力のある「国民」へと変え、本来の生を自覚させようとする態度が本書の随所で見られた。

国家の有り方、特に「ヨーロッパ合衆国」の理念等々は興味深いものであるが、彼の大衆社会論について簡単にまとめておく。

社会は、「選ばれた少数者」「真の貴族」と「大衆」のダイナミズムである。

「大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じでると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人である」

さらに

「選ばれた人とは、自分に多くを求める人であり、凡俗な人とは、自分に何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満も持っていない人である。」

「凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである」
とある。


色々うなずけるし、今日の日本社会においても当てはまることは限りないなのだが、私が一番、危惧に思うのは以下の大衆の特徴である。

すなわち、それは、「知的閉塞感」である。現代の大衆は過去のいかの大衆よりも知的である。しかし、「自分の思想に限られたレパートリー」に安住してしまっているのである。

特に専門家の野蛮性で述べられている箇所、専門家こそ大衆なのである、という命題は重くのしかかる。


専門家は自分の専門分野、しかも学問的に実に細かく専門化された領域については、卓越した知識を持っているが、それ以外の領域、自分の専門以外の領域については、公然と「無知」であることを宣言し、それを恥じる様子はなく、逆に自分の専門的な知識を輝かしいものに見せている。これこそ、先ほどの大衆の定義に当てはまるものなのである。

しかも、専門家は、他の大衆よりも、自分を完璧だと思う心理的事実が大いに見られ、専門外の分野に、無知だと言いながらも、自分の専門分野で発揮している権力をそこでも振りかざすのである。


大衆の知的水準が上がると、多くの人が自分をエリートだと感じる。しかし、自分をエリートだと自覚するところに、知的閉塞が生まれ、それに囚われ、自分を安定たらしめる「思想」に安住する。

エリートこそ大衆なのである。


オルテガは、大衆人の登場の原因を19世紀に求める。そこでは、自由主義的デモクラシーと技術が人々の生活に根付き、浸透した時代である。

それらのおかげで、世界は「過剰世界」になるが、様々な発明品(もちろん国家も含む)を自然物だと思い、それがいかにして維持されているのか、永遠に保証されたものではないのではないかということに不感症になり、そうした不均衡が、「生きるものとしての根源からの真正さ」を奪い、大衆とさせしむのである。

文明に対して「慢心しきったお坊ちゃん」となるのである。


オルテガは、生の哲学者であり、その本来の生とは逸脱した形で大衆人を論じている。

そしてヨーロッパ文化の根本的な欠落を論じ、それを大衆人の心理図の根源と見做し、両者を混同させない形で論じられている。


オルテガにとって、生とは、自らが難破者であることを自覚し、そこから這い上がってくるために、「なにをなさねばならないか」を考え、各人が一瞬ごとに自由に決断し、自分が創意した「生の計画」にそってなされなくてはならない。
それは国家も同じことである。国民の結合原理は、言語や人種、地理的境界ではなく、「未来」を共有してるか、何かの統合的な計画があるかなのである。


大衆が少数者を退け、社会を支配している。この「大衆の反逆」に強い危機感を感じ、実践的に多くの論文を書き、それを市民が見る新聞に掲載し、様々な雑誌を創刊、組織を設立し、国会議員にもなった「真の貴族」であるオルテガに、敬意を表さなくてはなるまい。



追記

本書の大衆社会論は、第一次世界大戦前のヨーロッパ社会を想定している。

マス・コミュニケーションの存在形態の違いと、それへのアクセス可能性の違いにより、現代社会の、日本やアメリカも含めた、大衆社会とは様相を呈している。

知的閉鎖性はみられるが、それは比較的学歴の高い社会層において、より顕著に見られるが。

リースマンの「他人志向性」の問題(往々にしてマスコミの登場のと関係しているのであろうが)が浮き彫りにされる前の大衆社会、すなわち、「大衆の反逆」が始まったころ、大衆が産声を上げて久しくたっていない大衆社会論として、極めて興味深いものだと思う。

すなわち、オルテガの時代の大衆人の特徴をそれから80、90年経っても保持し続けている階層とそうでない階層の違いの分析は興味深いものである。

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 プロフィール 
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いちひろ
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性別:
男性
誕生日:
1988/02/01
職業:
大学生
趣味:
読書、バックパッカー、水泳
自己紹介:
三重県鈴鹿市生まれ。

小中高生の時期を大阪府で過ごす。

現在は京都府在住。

ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
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