小中高生の時期を大阪府で過ごす。
現在は京都府在住。
ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
とある変人自由人による読書感想文兼エッセイ
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マックス・ウェーバーの『職業としての学問』を読みました。
今のところ、将来は学問を職業にしようと考えているので、タイトル見て、読んでおこうと思いました。
大学での教職につく難しさは、昔も今も変わらないのだなと。ドイツとアメリカの大学教員の採用の制度の違いや、徐々にドイツがアメリカ化してきて、昔ながらのドイツの教授と意見が合わなかったりした背景が興味深かった。
どの教官も自分が採用されたときのことは嫌な思い出で語りたくはないらしい。運やコネが大きな要因となっていたようで、自分よりも実力のある人たちを差し置いて、自分が採用されたり、正教授に昇進したりするのが、気のいいものではないらしい。
このへんのくだりは、前にとある他大学の准教授に酒の場で聞いた話と一致するので、官僚制でアメリカの大学の制度を取り入れた日本の大学であるが、この手の問題は大学という制度につきものなのであろうか。
自己を滅して、学問(職業)に専念すること。
学問の進歩は、自分の考えが常に時代遅れになる 宿命から発し、それを欲するところからはじまる。
教師は指導者になるべきではない
等々、もっと年を重ねてから読み返すと、違った読みができそうな箇所があって、また読みたいと思う。
この演説は、マルクス主義への傾倒、またはニーチェによる文化価値の喪失などの、現実の社会の否定という雰囲気のもとで、理想や体験、新たな世界観、指導者を欲した青年に向けられたものである。
「時代の宿命に男らしく堪える」ことをウェーバーは要求するのである。
そして、時代の宿命に目を伏せ、「大きな物語」を欲する青年に、ウェーバーが「日々の要求に従おう」といって講演を終えているのは印象的である。
学問は自らの前提を理論的に証明することはできない、ただ学問の限界内において事物を明確にすることが探求されるに意義があるのであり、生きる意味を与えてくれるものではないのだ。
オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を読みました。
第一世界大戦後のヨーロッパ社会を論じている。
第2部が政治論、国家論なので、大衆の分析に重点を置いて論じているのは、第1部である。
オルテガの生涯、つまり、彼の政治への情熱を知らなかったので、本書に対して持っていた漠然としたイメージとは大きく異なり、大衆を冷笑的に一歩引いた視点から分析しているのではなく、大衆に積極的に関わり、彼らを教育し、「生の計画」に基づいた、生命力のある「国民」へと変え、本来の生を自覚させようとする態度が本書の随所で見られた。
国家の有り方、特に「ヨーロッパ合衆国」の理念等々は興味深いものであるが、彼の大衆社会論について簡単にまとめておく。
社会は、「選ばれた少数者」「真の貴族」と「大衆」のダイナミズムである。
「大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じでると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人である」
さらに
「選ばれた人とは、自分に多くを求める人であり、凡俗な人とは、自分に何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満も持っていない人である。」
「凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである」
とある。
色々うなずけるし、今日の日本社会においても当てはまることは限りないなのだが、私が一番、危惧に思うのは以下の大衆の特徴である。
すなわち、それは、「知的閉塞感」である。現代の大衆は過去のいかの大衆よりも知的である。しかし、「自分の思想に限られたレパートリー」に安住してしまっているのである。
特に専門家の野蛮性で述べられている箇所、専門家こそ大衆なのである、という命題は重くのしかかる。
専門家は自分の専門分野、しかも学問的に実に細かく専門化された領域については、卓越した知識を持っているが、それ以外の領域、自分の専門以外の領域については、公然と「無知」であることを宣言し、それを恥じる様子はなく、逆に自分の専門的な知識を輝かしいものに見せている。これこそ、先ほどの大衆の定義に当てはまるものなのである。
しかも、専門家は、他の大衆よりも、自分を完璧だと思う心理的事実が大いに見られ、専門外の分野に、無知だと言いながらも、自分の専門分野で発揮している権力をそこでも振りかざすのである。
大衆の知的水準が上がると、多くの人が自分をエリートだと感じる。しかし、自分をエリートだと自覚するところに、知的閉塞が生まれ、それに囚われ、自分を安定たらしめる「思想」に安住する。
エリートこそ大衆なのである。
オルテガは、大衆人の登場の原因を19世紀に求める。そこでは、自由主義的デモクラシーと技術が人々の生活に根付き、浸透した時代である。
それらのおかげで、世界は「過剰世界」になるが、様々な発明品(もちろん国家も含む)を自然物だと思い、それがいかにして維持されているのか、永遠に保証されたものではないのではないかということに不感症になり、そうした不均衡が、「生きるものとしての根源からの真正さ」を奪い、大衆とさせしむのである。
文明に対して「慢心しきったお坊ちゃん」となるのである。
オルテガは、生の哲学者であり、その本来の生とは逸脱した形で大衆人を論じている。
そしてヨーロッパ文化の根本的な欠落を論じ、それを大衆人の心理図の根源と見做し、両者を混同させない形で論じられている。
オルテガにとって、生とは、自らが難破者であることを自覚し、そこから這い上がってくるために、「なにをなさねばならないか」を考え、各人が一瞬ごとに自由に決断し、自分が創意した「生の計画」にそってなされなくてはならない。
それは国家も同じことである。国民の結合原理は、言語や人種、地理的境界ではなく、「未来」を共有してるか、何かの統合的な計画があるかなのである。
大衆が少数者を退け、社会を支配している。この「大衆の反逆」に強い危機感を感じ、実践的に多くの論文を書き、それを市民が見る新聞に掲載し、様々な雑誌を創刊、組織を設立し、国会議員にもなった「真の貴族」であるオルテガに、敬意を表さなくてはなるまい。
追記
本書の大衆社会論は、第一次世界大戦前のヨーロッパ社会を想定している。
マス・コミュニケーションの存在形態の違いと、それへのアクセス可能性の違いにより、現代社会の、日本やアメリカも含めた、大衆社会とは様相を呈している。
知的閉鎖性はみられるが、それは比較的学歴の高い社会層において、より顕著に見られるが。
リースマンの「他人志向性」の問題(往々にしてマスコミの登場のと関係しているのであろうが)が浮き彫りにされる前の大衆社会、すなわち、「大衆の反逆」が始まったころ、大衆が産声を上げて久しくたっていない大衆社会論として、極めて興味深いものだと思う。
すなわち、オルテガの時代の大衆人の特徴をそれから80、90年経っても保持し続けている階層とそうでない階層の違いの分析は興味深いものである。