またまたお勉強。
この本は『社会学の理論』などの、テーマ横断的なテキストを読んでから読むことをすすめる。
なぜなら、本書は、学者ごとの章立てなのだけど、それぞれの内容が結構濃いので、あまり知識がないと、うまく消化できないと思うし、難しくて理解できず、退屈になってしまうところもあるので(その章によるのだが)、いきなりな人にはお勧めできない。
特にギデンズの章が目から鱗で、社会学史の流れをしって、ギデンズの再帰性の議論を追うとよく理解できる。
以前レビューでおもしろくない!と書いた『親密性の変容』なんだけど、当時それを読んだときに、近代の特性を再帰性に求めるのが、読んでてすごく当たり前な気がして、緩慢この上なかったのだけど、パーソンズなどの議論を踏まえて、読むと、今のところ、ギデンズはしっくりくるんだなって思いました。
各々の学者については、紙面上、そこまでつっこんで書かれてはいないので、ほんとに社会学史のお勉強にって感じの本でした。
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お勉強。
せっかく書いた記事がログインエラーで消えた。
要するに、
・冒頭に量的調査の誤解を解いている(量的調査に「解釈」もありえる)
・帰無仮説の勘違いがとけて、ほかの概念の意味が明確にわかるようになった。
・はじめから丁寧に読むことが大事。索引でたとえばΧ二乗検定だけ選んで読んでも理解不十分になる恐れあり。
・確率の考えや統計分布の仕組み、検定の原理などがわかるようになる。
初学者にはお勧めです。
お勉強。
有斐閣の社会学のテキストシリーズ。(と勝手によんでいる)
(レビューにもかきたくない有斐閣アルマ『自己と他者の社会学』はくそすぎたが)
行為の理論から社会変動へ、ミクロ理論からマクロ理論へ、例外の章もあるが、実にわかりやすく社会学の理論が整理され、説明されてある。
社会学史のように社会学者ごとの章立ての本にみられるような冗漫な感じはなく、テーマごとに理論がまとめられているスタイルのほうが、哲学とは違い、社会学の場合は、初学者にはむいているのではないかと思う。
今まではパーソンズやルーマンといった機能主義がどうも好きになれなかったし、理解もしていなかったが、本書を読んで、案外おもしろいなと思わされた。
自分の関心のある章はすぐ読めてしまうが、おもしろみを感じることのできない章は睡魔との闘いであったが、自分が社会学のどの分野に興味があるのか、わかったような気がした。
今までのつまみぐいの知識がやや広くなり、社会学のごくごく簡素な理論地図といったものを、頭に描けるようになった。(たとえば、パーソンズのような静態的な社会モデルと、闘争理論などに見られるような動態的な社会モデルなど)
社会学的に社会を見るとはどういうことか、概説的に身に着けることができ、大学院入試のテキストとしては良書だと思う。
今までの関心に加えて、ジンメル、ルーマン(以前じゃ考えられない!!)、「ポスト構造主義的社会理論」を学びたいと思った。
久しぶりの投稿です。その間に何冊が読みましたが、ホルクハイマー・アドルノ共著の『啓蒙の弁証法』をよみました。
2章のオッデュセイアの神話の寓意の解釈は比較的わかりやすかったですが、なかなか難解な著作だと思います。
反ユダヤ主義と手記の章はまだ読んでいないのですが、読んだら、またつけたします。
フランクフルト学派の古典的名著で、道具と化した理性が野蛮を導く道程を、啓蒙は神話に退化し、近代社会の野蛮性が立ち現れている過程として、哲学的に叙述されています。
副題に、哲学的断想とあるように、どの章も断片的な箇所があって、なかなかすっと理解できない点でも、読みにくく、難解とされているゆえんでもあります。
とりあえず、文学部の演習で発表したレジュメの一部を貼っておきます。
◎ 『啓蒙の弁証法』について
ホルクハイマーとアドルノの共著。1947年出版 1939年から44年にかけて執筆された。
・構成
「Ⅰ啓蒙の概念」で理論的基礎が述べられており、Ⅱ~Ⅵ章は各論となっている。
Ⅱ章ではオデュッセイア論として神話の寓意が、Ⅲ章ではサド論として道徳の根
拠が、啓蒙の<光>と<闇>を理論軸に検証されている。Ⅳ章ではアメリカ大衆
文化、Ⅴ章ではナチスら反ユダヤ主義を徹底的に批判している。
・理論的基礎の趣旨
序文で第一論文は「すでに神話が啓蒙である。」「啓蒙は神話に退化する。」の二つのテーゼに要約されるとあるので、それを簡単に説明しておく。
「すでに神話が啓蒙である。」
:啓蒙とは、世界を呪術から解放し、計算可能性や有用性を基準とする、合理化、記号化、文明化である。今や思考と数学を同一視する、実証主義的なものとなった。しかし、その啓蒙は神話から生まれた。神話は叙述し、確認し、説明を与えようとする、言語によって組織化された総体でもある。神話の言語的組織化が啓蒙の進展過程の動因となった。
「啓蒙は神話に退化する。」
:数学的方法によって、啓蒙は思考を道具にしてしまう(計算できるものが合理的なものであるとされ、考えることをやめることによって、理性の道具化がおこる。)道具化された理性は自己保存という目的のために、自然を操作対象とする。一方で、論理的に説明が出来ないということは、啓蒙にとって非常に不安であり、恐れである。支配の道具として命令か服従のいずれかを選ぶしかない、思考は自己を批判、反省することを忘れてしまった、そのことによって、一種の野蛮状態である近代社会が生まれ、神話に退化するのである。
◎ Ⅳ文化産業-大衆欺瞞としての啓蒙(pp249-348)
アメリカ大衆文化の徹底的批判。
*今日の文化
・ 類似的。
・ 資本の独占態勢の下で同一であり、独占によって大量生産された概念的骨格が正体を現す。内容的には代わり映えのしないものが、形だけ新しい衣装をまとって現れてくる。画一化された内容。
→個人は全体的な資本の力に屈従する方向に向かう。
*映画やラジオは芸術と自称する必要がなく、産業と名乗る。
←映画やラジオが金儲けであるという真理が逆にそれらを美化するイデオロギーとなる。
←複製方式を取らざるをえない。平均化された規格製品の供給。大量生産。
*文化産業の技術における合理性は、支配の合理性である。
それによって、かつてあった制作の論理も社会体制の論理の区別もなくなる。
*「技術的人的機構それ自体の持つ固有の重み」
・製作の執行権を握っているものの消費者像や、彼ら自身(の考えや好み)に合わないと考えるものが、製作するときの決断として共有されている。 どんな細部に至るまで、何が禁止され、何がカットされるかあますところなく統轄されている。
←それに対して、「すべての人は民主主義的に一律と聴衆と化し」ている
しかし、この聴衆の本質は文化産業の体制を事実上支えているので、免責されない。
*外界は映画(トーキー)の中の世界の延長であるかのように錯覚させることが容易に可能となった。トーキーは観客を訓練して、映画の出来事と現実の出来事を同一視するように仕向ける。
→観客たち想像や思考を働かせる余地を奪い、その客観的性質によって、文化消費者の想像力や自発性を萎縮させ、麻痺させる。
ここで、求められる注意力は、映画などの文化製品に自動的に随伴するほどに、身についたものである。
このようにして、文化産業の作品の一つ一つは、全文化産業が当てはめようとした型どおりの人間を再生産し、経済的巨大機械装置のモデルとなっている。
=「全世界が文化産業のフィルターをつうじて統率される。」という事態
*芸術作品の約束
=芸術作品は、伝統として伝えられてきた諸様式のうちに作品という型を押す。
しかし、偉大なる芸術家は様式に対する不信を持ち、否定的真理として取り入れた。
芸術が現実を超越する際、現実の諸様式とは切り離すことはできず、その様式(同
一性)と対決し、「差異」を持つことで達成される。
⇔薄弱な作品(大衆文化作品)
ほかの作品の類似性、同一性の代用物にしがみついた画一的なもの。
同一性に陥ってしまっている。
文化産業はイミテーションを絶対化している。
*芸術作品:欲望の対象は断念された形で造形されるが、断念されたものとして充足を描き出す。美的昇華。
文化産業:昇華される前の欲望を煽り、それ以上はそそのかされる。抑圧。
ここでは規格化されたモデルを個性として偶像視することで、美の機械的再生産に仕えることになる。
*「人々は何を欲しているか」
これは、一見人々が思想の主体であるように呼びかけているが、狙いは人々から
主体性を奪うことにある。文化産業は消費者の欲求を支配する。
この傾向は、娯楽には押し売りめいた要素があることからわかるように、娯楽は
商売とは切ってもきれない関係を有しているという娯楽の原理に内在している。
*主体性を奪われた人々(消費者達)は同時に、文化商品に対して、自分自身を、情動の内部までも、文化産業が提供するモデルにもあった装置に仕立てるという形で、ミメーシス(模造)を強制される。
* まとめ
文化産業の発達により、同一性に陥ってしまった、差異をもたない大衆文化作品
が大量に生産される。それらは類型にはめられたものであるため、消費者の思考を麻痺させ、類型的に美も機械的に再生産される。文化産業は人々の欲求をも支配し、人々は主体性を奪われ、提供された類型の模造となることを強制される。文化産業における合理性はそういった支配の合理性であり、画一化された没個性という「野蛮状態」へと導く。