小中高生の時期を大阪府で過ごす。
現在は京都府在住。
ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
とある変人自由人による読書感想文兼エッセイ
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
マックス・ウェーバーの『職業としての学問』を読みました。
今のところ、将来は学問を職業にしようと考えているので、タイトル見て、読んでおこうと思いました。
大学での教職につく難しさは、昔も今も変わらないのだなと。ドイツとアメリカの大学教員の採用の制度の違いや、徐々にドイツがアメリカ化してきて、昔ながらのドイツの教授と意見が合わなかったりした背景が興味深かった。
どの教官も自分が採用されたときのことは嫌な思い出で語りたくはないらしい。運やコネが大きな要因となっていたようで、自分よりも実力のある人たちを差し置いて、自分が採用されたり、正教授に昇進したりするのが、気のいいものではないらしい。
このへんのくだりは、前にとある他大学の准教授に酒の場で聞いた話と一致するので、官僚制でアメリカの大学の制度を取り入れた日本の大学であるが、この手の問題は大学という制度につきものなのであろうか。
自己を滅して、学問(職業)に専念すること。
学問の進歩は、自分の考えが常に時代遅れになる 宿命から発し、それを欲するところからはじまる。
教師は指導者になるべきではない
等々、もっと年を重ねてから読み返すと、違った読みができそうな箇所があって、また読みたいと思う。
この演説は、マルクス主義への傾倒、またはニーチェによる文化価値の喪失などの、現実の社会の否定という雰囲気のもとで、理想や体験、新たな世界観、指導者を欲した青年に向けられたものである。
「時代の宿命に男らしく堪える」ことをウェーバーは要求するのである。
そして、時代の宿命に目を伏せ、「大きな物語」を欲する青年に、ウェーバーが「日々の要求に従おう」といって講演を終えているのは印象的である。
学問は自らの前提を理論的に証明することはできない、ただ学問の限界内において事物を明確にすることが探求されるに意義があるのであり、生きる意味を与えてくれるものではないのだ。