去年の10月のレビュー・感想文の改定版ですが、カミュの『異邦人』ははずせないと思い、ここに入れます。
主人公のムルソーは母の死の次の日に海水浴に行き、そこで会った知り合いの女と情事にふけり、映画を見て笑いこけ、ふとしたきっかけで人を殺し、その動機を「太陽のせい」という。
彼は裁判にかけられ、母の死には意味はないとし、悲しまなかったという理由から、本来ならば死刑にならなかったのにも関わらず、死刑の判決を受け、そして、彼も特赦請願も出さない。
ムルソーにとって、この世には意味というものはなく、今日明日が楽しければそれでいい。
母の死も囚人生活も慣れればなんてこともない、そもそもそんなことは取るに足りないという。
母を愛している。感謝もしている。
でも、そのことに何の意味がある。母が死んだとしても、私には意味をなさない。
自分が今日死のうと、30年後死のうと何の違いがあるというのだ。
自分の人生に意味なんてないのに。
世界は意味もなく存在し、そこにはただの偶然性しかない。
人間はそこに意味や希望を求めたがるが、そんな希望とは無関係に世界はただそれ自体として存在する。
それゆえ、世界は論理性などなく、矛盾に満ち、「不条理」が溢れている。
人は無意味な世界に意味を求めたがる。意味があると信じたがる。
何か価値があると信じたがる。
そうでないと不安でしかたがないのだ。
それ故に、世界を無意味だとして生きるムルソーは、その根本を揺るがす存在として恐怖なのである。
世界や自分の人生に意味があるのだという人々のドクサ、あるいは生きるために必要であるその切実な思い込みが、彼を殺したのである。
というのが、大体のアウトラインです。
主人公のムルソーの気持ちわかります。
主人公みたく、人生に意味はないのだから、と死刑を引き受けるほど徹底して自分の信念を押し通すことはすごいことだと思う。
(いくら悪法でも法を守ることが正義だとして、自分の信念を貫き死刑を引き受けたソクラテスを想起する)
俺も実存の問題に関しては「絶望的な」立場を取るので、主人公のムルソーの気持ちわかるし、共感はあった。
自分がいてもいなくても、特に世界には何の影響もないと思うし、仮に影響があっても、それが何の意味があるのだと思う。
(そうじゃない!お互い助け合って云々を言い出す人の気持ちはわかります。意味はあると信じたくて必死なんですね)
カミュとサルトルの意見はえらい違って、
サルトルは、「私は私を選ぶことによって、全人類を選ぶ」
なんていって、アンガーシュマンを呼びかけているけど、まあ確かに断面はとらえているように思うけど、だから何って思うわけ。
自分の人生の意味なんてぐだぐだ考えるんじゃなくて、無意味な人生を受け入れて、自分の好きなことをしたい。
「生きる意味」こそ、自分勝手な都合のよい妄想そのもので、そのようなものの詮索に労を費やしたくはないのだ。
それが当の個人にとって、生きがいを与え、力を与えてくれるならば、有用であるとは思うが、それは今度いつ自分の刃を向けるかもしれない、諸刃の剣であることを、「生きる意味」を見出すことの成功している人は、少なくとも自覚する必要があると思う。
ここから私の個人的な人生の考えですが、
よくよく自分の過去を振り返ってみれば、しばしば見受けられる、逸脱傾向は、昔から、誰かが俺に言ってくることなんて、意味をなさないと考えていたからなんかなって思うと、大分しみついた考えだなと思う。
世間から見れば、負け組のような人生を歩むことの可能性は大ですな。
この前、親に30までは遊ぶからって言ったけど、もちろん、何らかの形で家にお金は入れますが。
こんなことを言ったら、当然、親への感謝、周りの人への感謝を忘れているというお叱りをよく受けますが、
感謝してあまりないぐらい、しているつもり。
筋を通す、は家風ですから。
でも、その感謝をするためだけに、自分の無意味な人生を使うつもりはない。
だって、そんなの楽しくないじゃない。
少なくとも俺にとっては。
そういうことができる人間がすればいいんじゃないかな。
楽しいことをしてそれが意味になるわけではないです。
そんな、自分の人生に何か意味があるとか、その類の希望は、妥協した後の絶望しか招かない。
縮小し続ける自我像のようなね。(これは『罪と罰』の学生論と重ねて考えてみると面白そうだ)
ムルソーみたく、自分の死を引き受けるつもりはないが、最低、親が死ぬまでは生きなければならないと思う。
ここがムルソーと違う点ですが、現世は永劫回帰するのではなく、死んだら神のところにいって、幸せになれると俺は信じているのだからね。
PR