竹内洋先生の『教養主義の没落』を読みました。
いろいろ感想があるんだけど、
まず、俺はあんまり日本の知識人、論壇について詳しくなかったので、歴史社会学的アプローチで教養主義やエリート学生文化が明らかにされていくうちに、特に大正、昭和初期のそれが概観されていて、とても勉強になった。
大正教養主義、マルクス的教養主義・左傾、軍部による弾圧、教養主義、マルクス主義の復活、全共闘による教養主義の攻撃、高等教育のマス化による教養主義の没落とサラリーマン文化への適応。といった学生文化を中心に、それがいかに移りかわっていったのか、明瞭に論が展開されていて、おもしろかった。
旧制高校から帝国大学という学歴貴族における「旧制高校的」文化と、新制高校や私立大学や非帝大における「新制高校」的文化の狭間をいきた文化人の葛藤やせめぎあいも、わかりやすかった。
帝大文学士とノルマリアンの比較もブルデューの理論が使われていて理解しやすく、岩波書店の果たした役割等々、目下のところ(日本で)学者になろうと考えている自分にとっては、知っておくべき事実であろうと思う。
という本書全体の概説的な感想はそれまでにして、本書で「教養主義者」と呼ばれているものが、まさしく自分にあてはまるものだと思い、読んでいて、はらはらさせられるものがあった。
本書86ページに「教養主義とは、歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心とした人格主義である。」としている。それは修養主義的に読書されるものである。(「農村的」)
この点に関して、私は特に人文系の読書を通じて人格を完成させるという大義名分のもとで読書をしているわけではないものの、直接的な目的ではないが、結果的に意図せず導かれうるものである可能性をもつ、つまり読書の蓄積によって、自分の考えに「深み」が増すものであることは信じている。しかもそれは大衆文学ではなく、もっぱら、文学作品や哲学書を通じてでである。
しかも、それはまさしく、修養主義的に、耐え忍んでたくさん読むべきだと考えている点も共通するところがある。
さらに、帝大文学士の教養主義者が、「文学部」というひとつの「表象」、「ブランド」を誇りにする心理、すなわち、文学的なもの以外の不外部世界との隔絶、または超越を通じて、それらと差異化するという傾向がある。わたしは「パンのために」学問するのではないという自負が、学問、文学の道へと進むもののRasion D'etreを支えたのであろう。
私も常々、政治学や経済学、法学などの「実学」を軽視して、哲学や文学、理論社会学を重んじている傾向と一致しているし、「文学部的」なものに威厳を感じているし、「大学に入ったのは勉強するためであって、働くためではない」と家族に公言しているのと一致する。哲学書や文学作品の威信を信じてやまないし、なぜ多くの人は哲学を勉強しないのだろうかと疑問をこぼすほどである。
本書を読んで、自分は学生文化の正当な文化は教養主義的なものだと信じてやまなかった、ほかの大勢のものがそれから「逸脱」しているものだと信じてやまなかったのだが、現代の主要な学生文化からすれば、自分が時代錯誤的であることが判明したのである。勉学する自分、その際に自明視して疑わなかった教養主義を、客体視させてくれるきっかけを同書は与えてくれた。
しかしながら、本書に述べられているには、教養主義が学生文化の規範文化であったころ、たくさんの本を読んで、教養豊かであろうとすればするほど、それが成功者とされていたわけだから、そうでないもの、つまり、修養主義の中で、「修行のたりないもの」にとっては、象徴的暴力空間でありえたことにはうなずける。
それを転覆しようと、マルクス主義の文献のみを読むべきものとし、その他の哲学書を読んでいるものを「旧い教養」として蔑むのは、まさしく教養主義の転覆を図るものであるし、しかし、それがマルクス主義的なものの文献の読書を前提とし、西洋の一文化からでたものに礎を持っている点で、彼らが攻撃をしている大正的教養主義に依存関係あるのだ。
さらに、知的階級という階級がまだ明確だった全共闘時代における、その運動は、「団交」に教授を召喚して、無理難題をおしつけ、恥をかかせるという、教養主義への、特に学歴貴族のエリート主義に対するルサンチマンに基づくものである。
以上のように、学生は「教養とはなにか」「知識人とはいかにあるべきか」といったような問いを絶えず問い続け、煩悶としてきた中で、「教養主義」はさまざまな天秤にかけられることになった。
しかし、70年代以降、大学のマス化が進むにつれて、学生はそのような問いを立てなくなった。そのような問いを醸成させる精神的土壌は大学からはなくなった。
それゆえ、今日における、私のような「教養主義者」は教養主義そのものを疑うことを知らず、自明視する結果となったのである。なんとも恥ずべきことであると思う。
だからといって、現代の大学から自己を磨くこと、完成させることは消え去ったわけではない。
友人関係やバイトなどの人との交際からいろんなものを「キョウヨウ」として学ぶのである。
就職活動をしている人がどこどこに人事部にえらいさんがすごい、インスパイアされる云々たれているのを耳にして、それは就職に際する適応、一種の儀礼的なものさえ感じていたのだが、本書を読んで、それは人との交際いもまれることで、人文書から得るもの以上に、それをキョウヨウとして受容することに重きを置くキョウヨウの学生文化の、サラリーマン文化への適応という主流の文化装置によるものであるこという解釈をえ、多いに納得のいくものであった。
学生文化の移り変わりを、社会の変化とともに抽出した、自己を客体視させてくれる「教養書」である。
自己言及的で刺激的であった。
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