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2025.05.16 - 
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物語とレヴィナスの「顔」/佐藤義之

2009.09.17 - 哲学
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1、2ヶ月ほど前に読んだ本の感想。


レヴィナスの解説ははじめの章だけで、後は著者独自の議論が進む。それはレヴィナスの顔の倫理(すべての倫理の基盤を「顔」にもとめる)と物語的倫理学への理論的橋渡しの可能性を探るといったもの。


レヴィナスの「顔」の概念について、基本的にレヴィナスに即した形で議論が展開されるので、勉強になるし、また倫理学についての知識も参考になった。




*アマゾンへのアフィリエイトをやろうかと思ったが、なんかわからないけど、僕を知っている人にいろんなことが筒抜けになるのではないかとう、懸念のため、あまりアクセスもないうえ、わずかな副収入のために、そのようなリスクは犯さないようにしようと思う。
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フッサール 起源への哲学/斎藤慶典

2009.05.17 - 哲学

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卒論関係で、シュッツの勉強をしようと思って、とりあえず、現象学の入門のためにと思って読みました。

フッサールの概説書というよりも、斎藤先生の独自の視点からフッサールを読み解いているという感じで、入門書という感じではなかったですが、だいたい現象学の”ニュアンス”が漠然とわかりました。

内容はカードにメモしてあるので、折り入って書くことはないですが、現象そのものへという起源への問いが、想像力、身体としての私、世界、時間と様々な問題系へと収斂されていくのが鮮やかに描かれていて、おもしろいです。

単純な問いが徐々に洗練させていく、その営みが哲学であるということがよくわかると思う。

最後の方の「空」とか「絶対的に未知なるもの」のくだりはもはや意味不明でしたが。

とりあえず、巻末に現象学の入門書として紹介されている本や、シュッツを読まないといけないと思うわけであります。

ソクラテスの弁明 クリトン/プラトン

2009.04.08 - 哲学

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プラトン著『ソクラテスの弁明』『クリトン』を読みました。

特に前者は、倫理の授業でよく話した内容なので、読んでいてわかりやすかったです。
どちらも量も少なく、読みやすいので、手軽に読めます。


ソクラテスのように、知者、物知りだと自負している無知蒙昧な人に無知であることを自覚させ、学問の出発点であるべき「無知の知」という謙虚な態度にもっていこうとする、つまり啓蒙の人間はいつの時代も、自己反省をしない虚栄心や猜疑心の強い人間にとっては、高慢に見え、煙たがられる存在なのであろう。

ソクラテスが、自らの理性の示す道、また神の栄光によって導かれる道にのみ従うべきであり、それは今まで行ってきたように青年をはじめ多くのアテナイ人と対話することであり、国法がそれを止めるように命じるならば、それに従うことはできないとし、国法が死刑を命じるならば、それを受けようとした。

いや、自分の信じるところの真理に反することを、是が非でも貫徹させる態度、知行合一を貫くのは、哲人そのものであろう。

ただ、読んでいて思ったのは、論理の展開が類推によるものが多いのが気になったが、当時のギリシャではその手の論理の展開が常套手段だったのだろうと思った。

『クリトン』の対話篇でソクラテスを説得するクリトンとソクラテスとのやり取りがすごく面白かった。


善く生きること、美しく生きること、正しく生きること、はすべて同じことだという内容があって、すごく印象的だった。うん。

あと、ソクラテスの国家観(といってしまうと、国法との”対話”はプラトンの創作だろうから、純粋にソクラテスのそれとはいいづらいのはあろうが)に、ちょっと関心を持った。


図解雑学シリーズ『読みたくなる世界史』の12,13頁において、ソクラテスを告発した3人のうちの1人、アニュトスがアルキビアデスという青年をめぐって、ソクラテスと恋敵であり、その嫉妬心があり、そして彼がペロポネソス戦争でスパルタに情報を売り寝返った男であり、その師であり恋人であるソクラテスをその廉で糾弾したという隠された史実があるとかないか。笑

ソクラテスは、国家の認める神を信じず、青年を誘惑し害を与えたという理由で告発されたとなっているが。


古代ギリシャは同性愛が美しいもと最上なるものとされ、青年のギリシャ的肉体美がもてはやされた時代である。
実に開放的で羨ましい限りである笑

死に至る病/S・キルケゴール

2009.03.27 - 哲学
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セーレン・キルケゴールの『死に至る病』を読みました。

高校生のときから実存主義思想に興味があったので、まずキルケゴールから。


絶望と罪の諸形態についての分類が興味深かった。

はじめにあるように、本書は「教化」と「覚醒」のために書かれたもので、中途半端なクリスチャンである自分にとって、読んでいて、とても重く、滅入るものであった。


「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。」

つまり、人間は「無限性と有限性」、「時間的なものと永遠的なもの」、「自由と必然」の綜合に関係する関係ということである。

そして、(絶望を自覚しているか否かを度外視して考える際、)この各々の関係項が一方のみに偏った場合に人は絶望するのである。

ここで、自分が陥っている絶望のひとつであろうと思ったのは、「無限性」に偏っていて、「有限性」を蔑ろにしていることに起因する絶望である。


キルケゴールは精神的な実存を本来的なものとする。
人間が自己の精神について反省し、その反省の度合いが強くなればなるほど、絶望の度も強くなり、罪の度も強くなる。しからば、神から最も離れた位置に行くことになるが、一方で神と最も近い位置にいるのである。

自己反省をせずに、自分が絶望していることに気づかないことのは、それに気づいているものよりも絶望的であるが、自己が絶望していることに気づき、自己自身であろうと欲しない、または欲する場合は、自ら絶望していることに気づかないものよりも、はるかに絶望の度は高いのである。


昔は、俺は、絶望して、自分自身であろうと欲していなかったのであるが、最近は、絶望して、自分自身であろうと欲する形態の絶望に陥っているように感じる。

キルケゴールのいう宗教的実存には後者のほうが近いのであろうが、単純に日々の”張り合い”というその点だけにおいていえば、前者のほうが、ある意味「人間的」なのであろうと感じる。当然、それは、キリスト者としての自己自身に無自覚になり、日常の雑多なことに埋没しているほうが、「直接的」で、絶望の度も低いので、そちらのほうが楽だといっているようなもので、当然、捨てられるべき感情なのであるが、自分の中には、そういうものへ堕落してしまうのではないかという恐怖があるのも事実である。


神の恩寵に対する絶望は、俺にとって、もっとも恐ろしい絶望であり、罪であるが、それを克服するためには信仰のみであることはうなずける。(俺はその種の絶望はしていないが)

神やキリスト、あるいは教説を概念的に把捉することは、不可能であるとするところ、問題は、ひとりひとりが単独者であり、倫理の問題は、ヘーゲル哲学の否定的な、一般化、普遍化の哲学・思弁では把捉されず、各々の具体性が問題とされると提起したところが、ドイツ観念論を乗り越える意味で、キルケゴールのした仕事で意義深いものなのであろう。


キルケゴールは「つまずき」をキリスト教的なものへの信仰の契機として、最後には3つの段階に整理して論じ、とても重要視している。しかし漠然とか「つまずき」について理解できなかったので、今後は、キルケゴールの「つまずき」の議論を追ってみたいと思う。


なお本書の内容については、以下が詳しい。

http://www.geocities.jp/enten_eller1120/text/kierkegaard/krankezumtod.html

風土/和辻哲郎

2009.03.15 - 哲学

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和辻哲郎の『風土』読みました。

モンスーン型、砂漠型、牧場型の類型で有名な和辻の風土論であるが、彼に言わせると、風土は人間と離して存在して、人間生活を規定するものではないと繰り返し否定している。

和辻は、ハイデガーの理論から、人間は「外に出ている(exsistere)」ことを志向し、我々自身を外に出ているものとして自覚しているが、我々は「風土」においてでていき、「風土」において我々自身(「間柄」としての我々自身を見出すのだとする。

したがって、風土は存在の自己客体化、自己発見の「契機」、すなわち、自己存在の了解の仕方なのである。

風土は、自然科学がいうところの自然環境ではなくして、長い歴史の過程で蓄積してきた人間の生活の様式である。それゆえ、歴史的・風土的現象は人間の自覚的存在の表現となる。

したがって、人間の存在の型としての風土の型を構想するには、歴史的。風土的現象を解釈が必要なのである。


以上が和辻の風土論の理論の枠組みであるが、存在が投げられることを「風土」と解したのは実に興味深く、面白かった。

最後の章でも議論されているように、人間の存在様式の個別性はいかにして把捉されるべきか、普遍的なそれとどのような関係があるのかについては難しい問題であり、現代は、和辻の時代よりも、はるかにその議論が求められているだろう。その際の、ヘーゲルの考えは実に興味深いものであった。


3つの類型の詳細は、他に譲るとして、気候→気質・性格→文化という流れが書かれていて読みやすいが、読んでいて思うのは、和辻の直観の鋭さが巧みにそれぞれの気候の特徴を捉えているのであるが、そこからの性格・気質への流れにやや論理的にもうすこし突っ込んで論じたほうがいいのではと思われた。それは不可能な作業なのかもしれないことはわかるが、歯痒い感じはどうしても払拭できなかった。


「日本」は、台風・大雪があるので、モンスーン型風土の特殊形態として、論じられている。
さらに、後の章の「芸術の風土的性格」においても日本について論じられているが、その日本文化論は実に見事である。

日本人の特殊性は、「しめやかな激情」と「戦闘的恬淡」である。

台風の突発性・季節性は、日本人を激情性と戦闘的な力をもつに至らしめる。

しめやかな思いは、感情の瞬間的爆発がによって「情死」へと導く。
江戸時代の文芸に好まれた話がそれである。『曽根崎心中』等。

そして、家族のために、恬淡に命を落とすことも徳とされた。諦め、潔さの徳。

それらは、日本において、成員が「距てなき結合」をもつ、「家」という全体性の中で最も現れるのである。

日本における「家」は、砂漠における「部族」、牧場における「ポリス」と同じである。


以降、有名な「家」のありかたにおける、日本と西洋の比較が展開され、また芸術の風土性に問題において、「庭園」の比較がなされ、興味深い考察である。また、それはあまりに有名となりすぎたゆえに、一般常識として知っておく必要があるとさえ思われる。
 

全体を通じて、和辻の西洋哲学に対する知識の深さ、直観の鋭さ、卓越した芸術的感性、詩人の感性が感じられる。


『風土』はすべての日本人が読むべき作品であると思う。

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 プロフィール 
HN:
いちひろ
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1988/02/01
職業:
大学生
趣味:
読書、バックパッカー、水泳
自己紹介:
三重県鈴鹿市生まれ。

小中高生の時期を大阪府で過ごす。

現在は京都府在住。

ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
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