デカルトの『方法序説』読みました。じっくり時間をかけて精読しました。笑
しっかし、「文字による学問」、「世間という書物」、「ドイツの炉部屋」といった表現が出てきたときは興奮した笑
本書は、『屈折光学』『気象学』『幾何学』という「自然学」の論文の序論として、一般教養人向けにフランス語で書かれたものである。
形而上学の問題よりもむしろ、数学の明証な方法論を自然科学に適応しようとする試論の導入がメインであろう。
なので、形而上学の問題がさらに展開された『省察』を読もうと思う。
かの有名な
「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」や方法的懐疑、良識、物心二元論、明証・分析・総合・枚挙の規則、暫定的道徳、機械論的自然観、動物精気
について、わかりやすく議論されている。
このようなデカルトの基本用語をここで説明するといった、倫理の講師の仕事の再現はわずらわしいので、特に関心のある、「神の存在証明」について、書くことにする。
哲学の第一原理である「我思う、ゆえに我あり」といったきわめて明証的なことを出発点とする。
(なお、この第一原理が明証である根拠は、自分自身がそれが明証であると明晰にわかっていること以外に何もないことをデカルトは認めている。)
「我思う」ときに、自分よりもより完全性の大きいものを観念としてもつとき、その観念が表現する実在性(表現的実在性)に対応した、形相的実在性の存在を帰着する。
そして、そういった自分よりも完全性の大きい観念は、自分よりも完全性の劣るものからではなく、より完全な本性によって、わたしの中に置かれたということになる。
なぜなら、わたしのもたない完全性を認識することは、完全な存在者の存在を前提としなければならず、ゆえに神は存在する。(第1証明)
神なしには、一瞬たりも存在し続けられないとする連続的創造説により、現に今、わたしが存在していることは明証である。ゆえに、神が不断の創造を続けていることになり、神は存在する。(第2証明)
そして、アンセルムス以来の有名な証明、(幾何学において三角形というの観念に存在が含まれているのと同様に)神の観念に存在が含まれる。(第3証明)
特に第1証明が今後の形而上学において議論の的にされ、カントに論駁されるわけだが、私が興味深いと考えたのは、
明証性の規則において、われわれがそれを明証だと考え、それを真だと判断するにおいて、すべて神に由来するものであり、逆に神に由来するからこそ、真だといえるのである、ということである。
つまり、精神の本質である思惟を展開していく過程で、ある観念が明証であり、真だと判断するにあたって、それが人間の完全性を超えたものであるゆえに、それは神に由来するということを知らなければ、いくら観念が明晰で判明であっても、真であるとい完全性がそなわっていることを保障する理由は、他にないのである。
良識は真偽を判断する能力であり、万人に平等に与えられた「自然の光」であるが、真であると判断するところの根拠は、それが神の由来を知らない限りないとされているわけで、神の存在の知なしには、いくら良識があるとはいえ、永遠に真には到達できないのである。
最後に、暫定的道徳が3つ挙げられているが、現在の生活をかんがみて、実に参考になると思った笑
「偉大なる理性」という言葉がたびたび登場するが、デカルトに始まる理性信仰。
それに対する反旗が翻されて久しいが、純粋に何の偏見もない「偉大なる理性」を目指して、自分を律しながら、突き進んだデカルト。
哲学をするものは、自分がもつすべての考えを一切捨て去る勇気がなくてはならない。
と言い切った彼に学ぶものはありすぎるように思う。
もう一度、サンジェルマン・デ・プレ教会にあるデカルトの墓に参りたくなった。
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