小中高生の時期を大阪府で過ごす。
現在は京都府在住。
ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
とある変人自由人による読書感想文兼エッセイ
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
和辻哲郎の『風土』読みました。
モンスーン型、砂漠型、牧場型の類型で有名な和辻の風土論であるが、彼に言わせると、風土は人間と離して存在して、人間生活を規定するものではないと繰り返し否定している。
和辻は、ハイデガーの理論から、人間は「外に出ている(exsistere)」ことを志向し、我々自身を外に出ているものとして自覚しているが、我々は「風土」においてでていき、「風土」において我々自身(「間柄」としての我々自身を見出すのだとする。
したがって、風土は存在の自己客体化、自己発見の「契機」、すなわち、自己存在の了解の仕方なのである。
風土は、自然科学がいうところの自然環境ではなくして、長い歴史の過程で蓄積してきた人間の生活の様式である。それゆえ、歴史的・風土的現象は人間の自覚的存在の表現となる。
したがって、人間の存在の型としての風土の型を構想するには、歴史的。風土的現象を解釈が必要なのである。
以上が和辻の風土論の理論の枠組みであるが、存在が投げられることを「風土」と解したのは実に興味深く、面白かった。
最後の章でも議論されているように、人間の存在様式の個別性はいかにして把捉されるべきか、普遍的なそれとどのような関係があるのかについては難しい問題であり、現代は、和辻の時代よりも、はるかにその議論が求められているだろう。その際の、ヘーゲルの考えは実に興味深いものであった。
3つの類型の詳細は、他に譲るとして、気候→気質・性格→文化という流れが書かれていて読みやすいが、読んでいて思うのは、和辻の直観の鋭さが巧みにそれぞれの気候の特徴を捉えているのであるが、そこからの性格・気質への流れにやや論理的にもうすこし突っ込んで論じたほうがいいのではと思われた。それは不可能な作業なのかもしれないことはわかるが、歯痒い感じはどうしても払拭できなかった。
「日本」は、台風・大雪があるので、モンスーン型風土の特殊形態として、論じられている。
さらに、後の章の「芸術の風土的性格」においても日本について論じられているが、その日本文化論は実に見事である。
日本人の特殊性は、「しめやかな激情」と「戦闘的恬淡」である。
台風の突発性・季節性は、日本人を激情性と戦闘的な力をもつに至らしめる。
しめやかな思いは、感情の瞬間的爆発がによって「情死」へと導く。
江戸時代の文芸に好まれた話がそれである。『曽根崎心中』等。
そして、家族のために、恬淡に命を落とすことも徳とされた。諦め、潔さの徳。
それらは、日本において、成員が「距てなき結合」をもつ、「家」という全体性の中で最も現れるのである。
日本における「家」は、砂漠における「部族」、牧場における「ポリス」と同じである。
以降、有名な「家」のありかたにおける、日本と西洋の比較が展開され、また芸術の風土性に問題において、「庭園」の比較がなされ、興味深い考察である。また、それはあまりに有名となりすぎたゆえに、一般常識として知っておく必要があるとさえ思われる。
全体を通じて、和辻の西洋哲学に対する知識の深さ、直観の鋭さ、卓越した芸術的感性、詩人の感性が感じられる。
『風土』はすべての日本人が読むべき作品であると思う。