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リチャード3世/シェイクスピア

2009.09.10 - 文学作品
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シェイクスピアの初期の時代劇・復讐劇『リチャード3世』読みました。

きっかけは、いくつかの本でリチャード3世がアナロジカルに使われているのを見て、読んでおこうというまじめなものです笑


世界史の資料集をひっぱりだしてきて、プランタジネット朝、ランカスター朝、ヨーク朝の関係や血統の復習もしておきました笑

ちなみにリチャード3世はヨーク家。


なんというか展開がすごくはやく、時間がたつのを忘れて読んでしまった。

敗れたランカスター家とチューダー家のいがみ合いと、ヨーク家内における内紛が、「呪い」という基本旋律で描かれている。

夫と息子をリチャードに殺害されたランカスター家のマーガレットとヨーク家の掛け合い、夫エドワード4世が病死し、3人の息子(弱冠で殺害されたエドワード5世含む)と弟をリチャードに殺害されたエリザベスと、そのエリザベスの娘をめとろうとするリチャード3世の掛け合いが、言葉遊び、含蓄にとんでおり、テンポのよいもので唸らせるものがあった。このシーンはお気に入りであるし、当作品の見せ場でもあると思う。


一方で権謀術数のマキャべリストであるリチャード3世、びっこでせむしというが、その策略たるや、おそろしく冷酷。

自らが王位を手中に収めようと、腹心に身内を殺させるよう指示するが、その腹心までも裏切り、殺害する。

めでたく、王位につけたものの、自分の意見にすこしでも躊躇するものを自分の地位を危ぶむものとして、今まで腹心であろうと、ばっさり殺してしまうのであるが、

そこには、自分が容易に人を裏切っていたように、自分も計略によって裏切られるのではないかと、人を信用できず、猜疑心にさいなまれた王を哀れなものだという印象をもったが、その私の感情そのものも、私が良心をもつもであるがゆえであり、リチャードからいわせれば、良心は小賢しい足かせ、それは弱者の所有物なのである。

彼は亡霊の呪いにより、自らの罪を後悔し、懺悔を始めるかと思いきや、良心を臆病者だと断じ、自らが高みを目指すための権謀術数を妨げる、煩わしいものとして退けるのである。


最終的にリチャード3世はのちのヘンリー7世であるリッチモンドに殺されることで「復讐」が達成し、エドワード4世の娘エリザベス(リチャードが求婚?した)と結婚し、ランカスター家とヨーク家は和合し、チューダー朝(ヘンリー7世の父はリッチモンド伯エドモンド・チューダー)の治世の開始で本劇は終わるのである。


解説にもあったように、本作品ではさまざまな人物が殺されるが、劇中で実際に殺害シーンが演じられるのは、クラレンス公(リチャード3世の次兄)とリチャード3世のみである。

クラレンス公は劇のはじめに、リチャード3世は劇の終わりに殺害されるのが、劇に対象性を与えるものとなっている。


  ああ、生きた人間のかりそめの愛顧を、神の恩寵にもまして、懸命に追い求めるあさましさ!
  他人の笑顔にひたすら希望をつなぐ男は、マストの上に酔っ払った舟乗りも同然、舟が揺れるたびに、いつ放りだされて、深い水底に引き込まれるかしれたものではない。


これはリチャードに裏切られた腹心のヘイスティングズの嘆きである。

王位継承の内紛に、身内忠臣関係なく、明日いつ誰が自分の敵になるやもしれなぬという、悲劇を如実にあらわしているように思う。
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カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー

2009.09.10 - 文学作品
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久々の更新です。

ドストエフスキー長編『カラマーゾフの兄弟』を読みました。

俺的に『罪と罰』よりかは読みやすいかなとは思ったけど、そこで著者が論じていることは当時のロシア社会、とりわけ知識人階級が先導したところによる、大きな問題の核となる部分を鋭い考察したもので、テーマとしてしては『罪と罰』よりかはより広範で、より普遍性を持った問題なのではないかと思った。

それの概要について、俺がこの場で説明し、自分の意見を披露するには、今一度当該箇所を読み直し、色々検討するという作業が必要だが、今ひとつそのような技量そしてそれをなしえる時間を当方持ち合わせていないゆえ、割愛するが、それにまつわるほんの印象の紹介と、べつに俺の個人的な論点から『カラマーゾフの兄弟』を解題(かなりおおげさだが)してみたいと思う。


ロシアは地理的にヨーロッパに使い分、といってもペテルブルクやモスクワに限ってだが、絶えず影響を受けてきた。

本作品を読んでいると、わが母なる大地ロシア、といったような表現に見られるように、ロシアという広大な土地と、ロシア人として民族意識が不可分に結びついており、解説にもそれが「スラブ的」と書かれてあった。

ロシア正教という価値観のもとで培われてきた「ロシア的」なものが危機に瀕している。

というのは、ロシアの知識人階級の多くは、ヨーロッパ的なもの、とりわけフランスの思想の影響を強く受け、「自由」「平等」という観念の虜になっていた。

民衆は相変わらず「ロシア的」であり、正教を重んじてはいるが、社交界などでは、「新しい思想」に大きな期待をよせるものたちの様子が描かれている。

ヨーロッパ的な価値観と従来のロシア的な価値観の葛藤の中、多くの知識人は無神論的、共産主義的なイデオーグに染まっていくこととなる。

とりわけ、次兄イワン・カラマーゾフはこの典型である。

それに対して、末っ子のアリョーシャは修道院の見習い僧(?)で旧来のロシア正教の価値観をもつ「神がかり行者」として描かれている。

しばし、この二人は神の所存、認識をめぐって、(イワンの「大審問官」は特に有名でこれが本書の核にあたるともいわれる)、激論を交えている。

当のドストエフスキーはというと、アリョーシャの意見が彼のそれに当たると思うのであるが、『罪と罰』の結末よろしく、キリスト教的価値観、つまり民衆がロシアを救うと考えている。

詳細は省略するが、

進歩主義的な価値観と全体主義的な土着のキリスト教的価値観の相克、互いに相反する大きな価値観がぶつかり合うダイナミズムが、それぞれのそれぞれに対する議論の要がわかりやすい形で、鋭く語られ、描かれている様子が読んでいて実におもしろかった。


私自身は、キリスト教を信じているというか、それにすがって生きているものなので、ものすごく精神に応えた箇所でもあったが、その辺について、精神的に優れた時期に、読み直し、自分の意見を述べることにしたいと思う。




長兄のドミートリ・カラマーゾフについて、もっぱら、彼は「カラマーゾフ的」だとされる。

彼は、自分の気高き信念をとことん固執し、貫く高潔さ と同時に、それが破滅への道に至るとわかりつつも、それを自己破壊の道を選らんでしまう

というアンビバレントな性格をもつ青年として描かれている。

父のフョードル・カラマーゾフの放蕩さも持ち合わせてはいるものの、気高き率直さ、神聖的ともいえる高潔さを同時に持ち合わせているのだ。



このアンビバレントな感情は、つまり、自分に関わるあらゆる道徳的義務を全うしたいと願う思いと自己が破壊することを受け入れ、一種の自己破壊に伴う陶酔、というアンビバレントな感情は誰しも多少は持っているのではないか。

全人類のために理想高く、志を燃やし、そのための道徳的義務も自ら引く受けるとする気概。

これはあらゆる人が持つのではないか。

私に言わせれば、この感情の強い人間のうち、身近な日常の道徳的義務をなおざりにするようなもの、つまり、普遍性のためになら、理念のためになら、命もかけるか、具体性にはそっぽを向くという人。

これは案外日常多く見かける気がする、例えば国際ボランティアをして、恵まれない人のために自分の一生をささげたいという志を持ちつつも、実際ボランティアにいって「今」それをすることを避けようとし、仮にしても、精神すり減らしてこんなんと思ってなかったという、今に生きず理想を生きるもの。


一方で、自己破壊的行動。

それを、放蕩を「カラマーゾフ的」な血のせいだと正当化し、知らぬ間に父と同じ徹を踏むという、

いやむしろ「血」というのはそれが自己破壊的なものであれ、卑劣漢なものであれ、恐ろしく心理的な安定をもたらせる。


それゆえ、自ら自己破壊的な行動をとるというドミートリは、単純に、自己破壊的行為への憧れという程度の差こそあれ誰しも持っているであろう心理的特徴に一義的に還元すべきではなく、そこにはなまぐさい血のもたらす効果も加味されるべきであるというより、それが第一義的であるとすら思う。


私の個人的な血筋からも、ドミートリ・カラマーゾフのこのような傾向にいたく共感しながら読んだものであった。


この二つの心理的特徴をすべての人間が共有するのかいなかはわからないが、当時の退廃したロシア社会のひとつの表象として捉えるべきであろうか、それとも、ポストモダンを生きる現代において、何かしらの一般的特徴をもつ行動となって現れえるものとしての、観察すべき、普遍的なものと捉えるべきであろうか。

啓蒙の弁証法/ホルクハイマー・アドルノ

2009.07.13 - 社会学
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久しぶりの投稿です。その間に何冊が読みましたが、ホルクハイマー・アドルノ共著の『啓蒙の弁証法』をよみました。

2章のオッデュセイアの神話の寓意の解釈は比較的わかりやすかったですが、なかなか難解な著作だと思います。

反ユダヤ主義と手記の章はまだ読んでいないのですが、読んだら、またつけたします。


フランクフルト学派の古典的名著で、道具と化した理性が野蛮を導く道程を、啓蒙は神話に退化し、近代社会の野蛮性が立ち現れている過程として、哲学的に叙述されています。

副題に、哲学的断想とあるように、どの章も断片的な箇所があって、なかなかすっと理解できない点でも、読みにくく、難解とされているゆえんでもあります。


とりあえず、文学部の演習で発表したレジュメの一部を貼っておきます。
 
     『啓蒙の弁証法』について
ホルクハイマーとアドルノの共著。1947年出版 1939年から44年にかけて執筆された。
  
 
 
 
・構成
「Ⅰ啓蒙の概念」で理論的基礎が述べられており、Ⅱ~Ⅵ章は各論となっている。
Ⅱ章ではオデュッセイア論として神話の寓意が、Ⅲ章ではサド論として道徳の根
拠が、啓蒙の<光>と<闇>を理論軸に検証されている。Ⅳ章ではアメリカ大衆
文化、Ⅴ章ではナチスら反ユダヤ主義を徹底的に批判している。
  
・理論的基礎の趣旨
   序文で第一論文は「すでに神話が啓蒙である。」「啓蒙は神話に退化する。」の二つのテーゼに要約されるとあるので、それを簡単に説明しておく。
  「すでに神話が啓蒙である。」
:啓蒙とは、世界を呪術から解放し、計算可能性や有用性を基準とする、合理化、記号化、文明化である。今や思考と数学を同一視する、実証主義的なものとなった。しかし、その啓蒙は神話から生まれた。神話は叙述し、確認し、説明を与えようとする、言語によって組織化された総体でもある。神話の言語的組織化が啓蒙の進展過程の動因となった。
  「啓蒙は神話に退化する。」
   :数学的方法によって、啓蒙は思考を道具にしてしまう(計算できるものが合理的なものであるとされ、考えることをやめることによって、理性の道具化がおこる。)道具化された理性は自己保存という目的のために、自然を操作対象とする。一方で、論理的に説明が出来ないということは、啓蒙にとって非常に不安であり、恐れである。支配の道具として命令か服従のいずれかを選ぶしかない、思考は自己を批判、反省することを忘れてしまった、そのことによって、一種の野蛮状態である近代社会が生まれ、神話に退化するのである。
 
     Ⅳ文化産業-大衆欺瞞としての啓蒙(pp249-348)
アメリカ大衆文化の徹底的批判。
 *今日の文化
・ 類似的。
     資本の独占態勢の下で同一であり、独占によって大量生産された概念的骨格が正体を現す。内容的には代わり映えのしないものが、形だけ新しい衣装をまとって現れてくる。画一化された内容。
→個人は全体的な資本の力に屈従する方向に向かう。
   
 
*映画やラジオは芸術と自称する必要がなく、産業と名乗る。
   ←映画やラジオが金儲けであるという真理が逆にそれらを美化するイデオロギーとなる。
   ←複製方式を取らざるをえない。平均化された規格製品の供給。大量生産。
  
*文化産業の技術における合理性は、支配の合理性である。
   それによって、かつてあった制作の論理も社会体制の論理の区別もなくなる。
  
  *「技術的人的機構それ自体の持つ固有の重み」
   ・製作の執行権を握っているものの消費者像や、彼ら自身(の考えや好み)に合わないと考えるものが、製作するときの決断として共有されている。    どんな細部に至るまで、何が禁止され、何がカットされるかあますところなく統轄されている。
←それに対して、「すべての人は民主主義的に一律と聴衆と化し」ている
    しかし、この聴衆の本質は文化産業の体制を事実上支えているので、免責されない。
 
  *外界は映画(トーキー)の中の世界の延長であるかのように錯覚させることが容易に可能となった。トーキーは観客を訓練して、映画の出来事と現実の出来事を同一視するように仕向ける。
  →観客たち想像や思考を働かせる余地を奪い、その客観的性質によって、文化消費者の想像力や自発性を萎縮させ、麻痺させる。
   ここで、求められる注意力は、映画などの文化製品に自動的に随伴するほどに、身についたものである。
  
このようにして、文化産業の作品の一つ一つは、全文化産業が当てはめようとした型どおりの人間を再生産し、経済的巨大機械装置のモデルとなっている。
=「全世界が文化産業のフィルターをつうじて統率される。」という事態
 
  *芸術作品の約束
   =芸術作品は、伝統として伝えられてきた諸様式のうちに作品という型を押す。
   しかし、偉大なる芸術家は様式に対する不信を持ち、否定的真理として取り入れた。
  
  芸術が現実を超越する際、現実の諸様式とは切り離すことはできず、その様式(同
一性)と対決し、「差異」を持つことで達成される。
  ⇔薄弱な作品(大衆文化作品)
   ほかの作品の類似性、同一性の代用物にしがみついた画一的なもの。
   同一性に陥ってしまっている。
   文化産業はイミテーションを絶対化している。
 
 *芸術作品:欲望の対象は断念された形で造形されるが、断念されたものとして充足を描き出す。美的昇華。
   文化産業:昇華される前の欲望を煽り、それ以上はそそのかされる。抑圧。
       ここでは規格化されたモデルを個性として偶像視することで、美の機械的再生産に仕えることになる。
 
 *「人々は何を欲しているか」
  これは、一見人々が思想の主体であるように呼びかけているが、狙いは人々から
主体性を奪うことにある。文化産業は消費者の欲求を支配する。
この傾向は、娯楽には押し売りめいた要素があることからわかるように、娯楽は
商売とは切ってもきれない関係を有しているという娯楽の原理に内在している。
 
*主体性を奪われた人々(消費者達)は同時に、文化商品に対して、自分自身を、情動の内部までも、文化産業が提供するモデルにもあった装置に仕立てるという形で、ミメーシス(模造)を強制される。
 
     まとめ
  文化産業の発達により、同一性に陥ってしまった、差異をもたない大衆文化作品 
 が大量に生産される。それらは類型にはめられたものであるため、消費者の思考を麻痺させ、類型的に美も機械的に再生産される。文化産業は人々の欲求をも支配し、人々は主体性を奪われ、提供された類型の模造となることを強制される。文化産業における合理性はそういった支配の合理性であり、画一化された没個性という「野蛮状態」へと導く。

親密性の変容/アンソニー・ギデンズ

2009.06.22 - 社会学
他者の代替不可能性にかねてから興味を持っていたので、本書は、親密性というものが歴史的にどのように変容していたのかという歴史社会学的な視点で論じられているでいるのであろうという目論見のもとで読みました。

目次に、同性愛者の問題についても触れられていたので更に興味を持ったのです。

ギデンズのいう親密な関係性が漠然としていてわかりにくい。


まあでも、生殖とセクシャリティがどう切り離されていったか、女性同性愛者のくだりと女性の性の革命、男らしさ女らしさなど読み物としては面白みがあると思った。

その場限りのセクシャリティを論じたところで、同性愛者の節操のなさが、異性愛者のセクシャリティのあり方を先取りしている等々の議論も面白みがあったかな。


ただ民主制とセクシャリティとか、モダニティがどうとか、主張がわかりにくいのと、そういうマクロ社会学や文明論的な話と、心理学的な話が、章をまたがっているとはいえ、ごちゃごちゃしている印象をうけた。結局、このおっさんは何がいいたいんやろうと・・・


要約はこちら

http://www.arsvi.com/b1990/9200ga.htm


『有毒な親』は読んだことあってへ~って思ったし、共依存の社会学的意味もまあまあおもろかった。


でも、フーコー、フロイト、マルクーゼ等々、ちゃんと読んだことないから、そのへん読んでかた読んだら、もっとすっきりわかるんやろなって思った。

はい、勉強不足です・・・


さ、頑張ろうっと~


この本について、内容まとめてないし、エッセイも書いてないけど、またやろか。

正直、あんまり、好きな論のもっていきかたではなかった・・・

フッサール 起源への哲学/斎藤慶典

2009.05.17 - 哲学

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卒論関係で、シュッツの勉強をしようと思って、とりあえず、現象学の入門のためにと思って読みました。

フッサールの概説書というよりも、斎藤先生の独自の視点からフッサールを読み解いているという感じで、入門書という感じではなかったですが、だいたい現象学の”ニュアンス”が漠然とわかりました。

内容はカードにメモしてあるので、折り入って書くことはないですが、現象そのものへという起源への問いが、想像力、身体としての私、世界、時間と様々な問題系へと収斂されていくのが鮮やかに描かれていて、おもしろいです。

単純な問いが徐々に洗練させていく、その営みが哲学であるということがよくわかると思う。

最後の方の「空」とか「絶対的に未知なるもの」のくだりはもはや意味不明でしたが。

とりあえず、巻末に現象学の入門書として紹介されている本や、シュッツを読まないといけないと思うわけであります。

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 プロフィール 
HN:
いちひろ
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1988/02/01
職業:
大学生
趣味:
読書、バックパッカー、水泳
自己紹介:
三重県鈴鹿市生まれ。

小中高生の時期を大阪府で過ごす。

現在は京都府在住。

ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
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