久々の更新です。
ドストエフスキー長編『カラマーゾフの兄弟』を読みました。
俺的に『罪と罰』よりかは読みやすいかなとは思ったけど、そこで著者が論じていることは当時のロシア社会、とりわけ知識人階級が先導したところによる、大きな問題の核となる部分を鋭い考察したもので、テーマとしてしては『罪と罰』よりかはより広範で、より普遍性を持った問題なのではないかと思った。
それの概要について、俺がこの場で説明し、自分の意見を披露するには、今一度当該箇所を読み直し、色々検討するという作業が必要だが、今ひとつそのような技量そしてそれをなしえる時間を当方持ち合わせていないゆえ、割愛するが、それにまつわるほんの印象の紹介と、べつに俺の個人的な論点から『カラマーゾフの兄弟』を解題(かなりおおげさだが)してみたいと思う。
ロシアは地理的にヨーロッパに使い分、といってもペテルブルクやモスクワに限ってだが、絶えず影響を受けてきた。
本作品を読んでいると、わが母なる大地ロシア、といったような表現に見られるように、ロシアという広大な土地と、ロシア人として民族意識が不可分に結びついており、解説にもそれが「スラブ的」と書かれてあった。
ロシア正教という価値観のもとで培われてきた「ロシア的」なものが危機に瀕している。
というのは、ロシアの知識人階級の多くは、ヨーロッパ的なもの、とりわけフランスの思想の影響を強く受け、「自由」「平等」という観念の虜になっていた。
民衆は相変わらず「ロシア的」であり、正教を重んじてはいるが、社交界などでは、「新しい思想」に大きな期待をよせるものたちの様子が描かれている。
ヨーロッパ的な価値観と従来のロシア的な価値観の葛藤の中、多くの知識人は無神論的、共産主義的なイデオーグに染まっていくこととなる。
とりわけ、次兄イワン・カラマーゾフはこの典型である。
それに対して、末っ子のアリョーシャは修道院の見習い僧(?)で旧来のロシア正教の価値観をもつ「神がかり行者」として描かれている。
しばし、この二人は神の所存、認識をめぐって、(イワンの「大審問官」は特に有名でこれが本書の核にあたるともいわれる)、激論を交えている。
当のドストエフスキーはというと、アリョーシャの意見が彼のそれに当たると思うのであるが、『罪と罰』の結末よろしく、キリスト教的価値観、つまり民衆がロシアを救うと考えている。
詳細は省略するが、
進歩主義的な価値観と全体主義的な土着のキリスト教的価値観の相克、互いに相反する大きな価値観がぶつかり合うダイナミズムが、それぞれのそれぞれに対する議論の要がわかりやすい形で、鋭く語られ、描かれている様子が読んでいて実におもしろかった。
私自身は、キリスト教を信じているというか、それにすがって生きているものなので、ものすごく精神に応えた箇所でもあったが、その辺について、精神的に優れた時期に、読み直し、自分の意見を述べることにしたいと思う。
長兄のドミートリ・カラマーゾフについて、もっぱら、彼は「カラマーゾフ的」だとされる。
彼は、自分の気高き信念をとことん固執し、貫く高潔さ と同時に、それが破滅への道に至るとわかりつつも、それを自己破壊の道を選らんでしまう
というアンビバレントな性格をもつ青年として描かれている。
父のフョードル・カラマーゾフの放蕩さも持ち合わせてはいるものの、気高き率直さ、神聖的ともいえる高潔さを同時に持ち合わせているのだ。
このアンビバレントな感情は、つまり、自分に関わるあらゆる道徳的義務を全うしたいと願う思いと自己が破壊することを受け入れ、一種の自己破壊に伴う陶酔、というアンビバレントな感情は誰しも多少は持っているのではないか。
全人類のために理想高く、志を燃やし、そのための道徳的義務も自ら引く受けるとする気概。
これはあらゆる人が持つのではないか。
私に言わせれば、この感情の強い人間のうち、身近な日常の道徳的義務をなおざりにするようなもの、つまり、普遍性のためになら、理念のためになら、命もかけるか、具体性にはそっぽを向くという人。
これは案外日常多く見かける気がする、例えば国際ボランティアをして、恵まれない人のために自分の一生をささげたいという志を持ちつつも、実際ボランティアにいって「今」それをすることを避けようとし、仮にしても、精神すり減らしてこんなんと思ってなかったという、今に生きず理想を生きるもの。
一方で、自己破壊的行動。
それを、放蕩を「カラマーゾフ的」な血のせいだと正当化し、知らぬ間に父と同じ徹を踏むという、
いやむしろ「血」というのはそれが自己破壊的なものであれ、卑劣漢なものであれ、恐ろしく心理的な安定をもたらせる。
それゆえ、自ら自己破壊的な行動をとるというドミートリは、単純に、自己破壊的行為への憧れという程度の差こそあれ誰しも持っているであろう心理的特徴に一義的に還元すべきではなく、そこにはなまぐさい血のもたらす効果も加味されるべきであるというより、それが第一義的であるとすら思う。
私の個人的な血筋からも、ドミートリ・カラマーゾフのこのような傾向にいたく共感しながら読んだものであった。
この二つの心理的特徴をすべての人間が共有するのかいなかはわからないが、当時の退廃したロシア社会のひとつの表象として捉えるべきであろうか、それとも、ポストモダンを生きる現代において、何かしらの一般的特徴をもつ行動となって現れえるものとしての、観察すべき、普遍的なものと捉えるべきであろうか。
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