小中高生の時期を大阪府で過ごす。
現在は京都府在住。
ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
とある変人自由人による読書感想文兼エッセイ
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和辻哲郎の『風土』読みました。
モンスーン型、砂漠型、牧場型の類型で有名な和辻の風土論であるが、彼に言わせると、風土は人間と離して存在して、人間生活を規定するものではないと繰り返し否定している。
和辻は、ハイデガーの理論から、人間は「外に出ている(exsistere)」ことを志向し、我々自身を外に出ているものとして自覚しているが、我々は「風土」においてでていき、「風土」において我々自身(「間柄」としての我々自身を見出すのだとする。
したがって、風土は存在の自己客体化、自己発見の「契機」、すなわち、自己存在の了解の仕方なのである。
風土は、自然科学がいうところの自然環境ではなくして、長い歴史の過程で蓄積してきた人間の生活の様式である。それゆえ、歴史的・風土的現象は人間の自覚的存在の表現となる。
したがって、人間の存在の型としての風土の型を構想するには、歴史的。風土的現象を解釈が必要なのである。
以上が和辻の風土論の理論の枠組みであるが、存在が投げられることを「風土」と解したのは実に興味深く、面白かった。
最後の章でも議論されているように、人間の存在様式の個別性はいかにして把捉されるべきか、普遍的なそれとどのような関係があるのかについては難しい問題であり、現代は、和辻の時代よりも、はるかにその議論が求められているだろう。その際の、ヘーゲルの考えは実に興味深いものであった。
3つの類型の詳細は、他に譲るとして、気候→気質・性格→文化という流れが書かれていて読みやすいが、読んでいて思うのは、和辻の直観の鋭さが巧みにそれぞれの気候の特徴を捉えているのであるが、そこからの性格・気質への流れにやや論理的にもうすこし突っ込んで論じたほうがいいのではと思われた。それは不可能な作業なのかもしれないことはわかるが、歯痒い感じはどうしても払拭できなかった。
「日本」は、台風・大雪があるので、モンスーン型風土の特殊形態として、論じられている。
さらに、後の章の「芸術の風土的性格」においても日本について論じられているが、その日本文化論は実に見事である。
日本人の特殊性は、「しめやかな激情」と「戦闘的恬淡」である。
台風の突発性・季節性は、日本人を激情性と戦闘的な力をもつに至らしめる。
しめやかな思いは、感情の瞬間的爆発がによって「情死」へと導く。
江戸時代の文芸に好まれた話がそれである。『曽根崎心中』等。
そして、家族のために、恬淡に命を落とすことも徳とされた。諦め、潔さの徳。
それらは、日本において、成員が「距てなき結合」をもつ、「家」という全体性の中で最も現れるのである。
日本における「家」は、砂漠における「部族」、牧場における「ポリス」と同じである。
以降、有名な「家」のありかたにおける、日本と西洋の比較が展開され、また芸術の風土性に問題において、「庭園」の比較がなされ、興味深い考察である。また、それはあまりに有名となりすぎたゆえに、一般常識として知っておく必要があるとさえ思われる。
全体を通じて、和辻の西洋哲学に対する知識の深さ、直観の鋭さ、卓越した芸術的感性、詩人の感性が感じられる。
『風土』はすべての日本人が読むべき作品であると思う。
オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を読みました。
第一世界大戦後のヨーロッパ社会を論じている。
第2部が政治論、国家論なので、大衆の分析に重点を置いて論じているのは、第1部である。
オルテガの生涯、つまり、彼の政治への情熱を知らなかったので、本書に対して持っていた漠然としたイメージとは大きく異なり、大衆を冷笑的に一歩引いた視点から分析しているのではなく、大衆に積極的に関わり、彼らを教育し、「生の計画」に基づいた、生命力のある「国民」へと変え、本来の生を自覚させようとする態度が本書の随所で見られた。
国家の有り方、特に「ヨーロッパ合衆国」の理念等々は興味深いものであるが、彼の大衆社会論について簡単にまとめておく。
社会は、「選ばれた少数者」「真の貴族」と「大衆」のダイナミズムである。
「大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じでると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人である」
さらに
「選ばれた人とは、自分に多くを求める人であり、凡俗な人とは、自分に何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満も持っていない人である。」
「凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである」
とある。
色々うなずけるし、今日の日本社会においても当てはまることは限りないなのだが、私が一番、危惧に思うのは以下の大衆の特徴である。
すなわち、それは、「知的閉塞感」である。現代の大衆は過去のいかの大衆よりも知的である。しかし、「自分の思想に限られたレパートリー」に安住してしまっているのである。
特に専門家の野蛮性で述べられている箇所、専門家こそ大衆なのである、という命題は重くのしかかる。
専門家は自分の専門分野、しかも学問的に実に細かく専門化された領域については、卓越した知識を持っているが、それ以外の領域、自分の専門以外の領域については、公然と「無知」であることを宣言し、それを恥じる様子はなく、逆に自分の専門的な知識を輝かしいものに見せている。これこそ、先ほどの大衆の定義に当てはまるものなのである。
しかも、専門家は、他の大衆よりも、自分を完璧だと思う心理的事実が大いに見られ、専門外の分野に、無知だと言いながらも、自分の専門分野で発揮している権力をそこでも振りかざすのである。
大衆の知的水準が上がると、多くの人が自分をエリートだと感じる。しかし、自分をエリートだと自覚するところに、知的閉塞が生まれ、それに囚われ、自分を安定たらしめる「思想」に安住する。
エリートこそ大衆なのである。
オルテガは、大衆人の登場の原因を19世紀に求める。そこでは、自由主義的デモクラシーと技術が人々の生活に根付き、浸透した時代である。
それらのおかげで、世界は「過剰世界」になるが、様々な発明品(もちろん国家も含む)を自然物だと思い、それがいかにして維持されているのか、永遠に保証されたものではないのではないかということに不感症になり、そうした不均衡が、「生きるものとしての根源からの真正さ」を奪い、大衆とさせしむのである。
文明に対して「慢心しきったお坊ちゃん」となるのである。
オルテガは、生の哲学者であり、その本来の生とは逸脱した形で大衆人を論じている。
そしてヨーロッパ文化の根本的な欠落を論じ、それを大衆人の心理図の根源と見做し、両者を混同させない形で論じられている。
オルテガにとって、生とは、自らが難破者であることを自覚し、そこから這い上がってくるために、「なにをなさねばならないか」を考え、各人が一瞬ごとに自由に決断し、自分が創意した「生の計画」にそってなされなくてはならない。
それは国家も同じことである。国民の結合原理は、言語や人種、地理的境界ではなく、「未来」を共有してるか、何かの統合的な計画があるかなのである。
大衆が少数者を退け、社会を支配している。この「大衆の反逆」に強い危機感を感じ、実践的に多くの論文を書き、それを市民が見る新聞に掲載し、様々な雑誌を創刊、組織を設立し、国会議員にもなった「真の貴族」であるオルテガに、敬意を表さなくてはなるまい。
追記
本書の大衆社会論は、第一次世界大戦前のヨーロッパ社会を想定している。
マス・コミュニケーションの存在形態の違いと、それへのアクセス可能性の違いにより、現代社会の、日本やアメリカも含めた、大衆社会とは様相を呈している。
知的閉鎖性はみられるが、それは比較的学歴の高い社会層において、より顕著に見られるが。
リースマンの「他人志向性」の問題(往々にしてマスコミの登場のと関係しているのであろうが)が浮き彫りにされる前の大衆社会、すなわち、「大衆の反逆」が始まったころ、大衆が産声を上げて久しくたっていない大衆社会論として、極めて興味深いものだと思う。
すなわち、オルテガの時代の大衆人の特徴をそれから80、90年経っても保持し続けている階層とそうでない階層の違いの分析は興味深いものである。
カフカの『変身』を読みました。
なんていうか、不思議すぎる!しっくりこないというか。
そもそも、朝起きて、自分が巨大な虫になってて、どうして、その理由を自問しないのかが謎。
(家族もだけど!)
何か、神によって裁きを受けるようなことをしただろうかとか、そういう発想はなく、虫に変身したために朝出勤できなかったが、周囲の人が自分の様子をみて、驚いたら、出勤できなかったことは、至極当然だと考えるだろうとか、全く驚かなかったら、次の汽車ででていけばいいのだ。って、心配するところちゃうやろー
一生このままなのか!?人間に戻れないの!?!?って焦ったり、絶望したりしないことを考えると、
この「変身」は案外、願ったりかなったりじゃないのかって思わざるを得ない。
主人公のグレーゴルは、今の仕事(外交販売員)は束縛が大きく、いつか自由な身になってやると考えていることからも考えて、この「変身」はそういった現状(現実ではない)からの逃避という意味合いがあるのではないか。
家族を養わなければならないという強い義務感と、もっと自由になってまともな精神状態をもちたいという感情が、この「変身」に繋がったのではないかと思う。
最後の「解説」を読むと、主人公と父親の関係も、絶対的な父親というイメージが本作品で見られることも指摘されており、様々な解釈があっておもしろい。カフカの人生を知り、他の彼の作品などを読むと、もっと深く、カフカの意図するところがわかるのかもしれない。
ま、別にドイツ文学の研究者になるわけでないのだから、厳密になりすぎてもおもしろくないので、さっきの「変身」=現状からの逃避という、俺の解釈(それが一般的かどうかなのかも知らないが)をもとに、何か考えたことをまとめておく。
グレーゴルはもともと家族思いで、家族のために懸命につくした。そんなグレーゴルを家族は愛した。
しかし、虫になってしまったグレーゴルに、嫌悪と愛の二律背反の感情で家族は揺れ動く。
働けなくなってしまったグレーゴルは、家にお金を入れることはできない上に、収入を得るための苦肉の策として迎え入れた下宿人を追い出してしまう。
家族はこれをきっかけで、我慢の限界に達し、グレーゴルという厄介者をどうにかしなければならないと考えるようになるが、翌日、グレーゴルは死んでしまう。
家族はいくら醜い虫となってしまっても、グレーゴルを愛していた。死んだとわかると家族みんな泣いたのだが、過去は過去と決別し、新たな生活へとささやかな希望を持つのである。
切ない感情を抱かずにはいられない。
グレーゴルに対する、愛と嫌悪の感情の相克も痛々しいほど伝わってくるが、
「変身前」あれほど、尽くした息子・兄は、もはや稼ぐこともなく、家族に害を及ぼすだけになってしまったことで、嫌悪が愛に勝り、見捨てられることになる。
結局、家族であっても、なんらかのプラスの役割(機能)を果たさなくなれば、そのかけがえになさは、死でもってしか再び、立ち現れてこないのであろうか。
つまるところ、人間は「孤独」なのである。
別の観点から。
仮に外交販売員という仕事という現状からの逃避願望が体現化して(中島敦の『山月記』みたく)、「虫」に「変身」したとしても、結局、家族をさらさら捨てる気にはない主人公は家族というひとつの呪縛からは解放されないわけ。
普段、こんな日常生活おもしろくないなー。もっと自由にならないかなー。いっそ部屋の隅においてあるクマのぬいぐるみにでもなれなたらなー楽やろーなーなんて、高校のときによく妄想したがが、
また、将来、自分の思うどおりに、何のしがらみもなく、自由に生きたいなーなんて考えたりするけど、
その妄想は、自分の周りにいる人たち、とりわけ家族の存在を想起することでいかにして容易く自分を現実に引き戻すか、それは誰しも経験があることだろうと思う。
自由になりたい、家族を幸せにしたいという相反する願望のうち、前者の実現のみが、調整されることなく無配慮に、押し付けられたとしたら、それは『変身』の筋書きになるのではないか。
虫になった主人公が感覚が人間離れしていく様子が示唆的である。
人間は、社会的存在の拘束性からは、逃れられず、拘束されている限りにおいて、人間の感覚を保持できるのであろう。
つまり、人間は、究極的に「自由」になれず、「孤独」な存在だということである。