小中高生の時期を大阪府で過ごす。
現在は京都府在住。
ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
とある変人自由人による読書感想文兼エッセイ
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『脱常識の社会学』の第4章「犯罪の常態性」の中の、犯罪についてのデュルケムの理論に関心を持ったので、それを簡単にまとめ、私見を加えて、レポートとする。
犯罪とその処罰は社会的儀礼として、社会構造を支える基本的な部分である。とりわけ、麻薬、ギャンブル、売春などの「被害者なき犯罪」について、それらは、社会を支配する集団にとって、彼らが考える正義の理念に反するものであるとされ(犯罪は作られる)、それらに対して、憤慨するという道徳的感情をもち、それに基づく反対運動などの行為によって、彼らはこの社会において「まともな」成員なのだと了解する。犯罪者の罪状を問う法廷や警察も儀礼であり、それは、被告人に対する儀礼ではなく、公衆に向けてなされる儀礼である。つまり、犯罪への怒りが社会の階層秩序を正当化し、犯罪処罰の儀礼によって、集団は結束を保っているのである。
以上が、この章で強調されたデュルケムの犯罪理論であるが、これは、ある特定の集団がその結束を維持するための装置として、犯罪や処罰が社会の中に組み込まれているという図式を描いたものである。一方で、下位階層者とされ、大きな集団としての結束や連帯感のない集団については、それぞれが孤立した個人、あるいは、孤立した小集団であり、彼らは、自分の利益のみを追求する「合理的」な個人であり、常に合理的になろうとするので、不正行為を選択し(第1章)、特定の社会において、犯罪者となるのである。それは、彼らには統合された集団に属することでもつに至る道徳的感情が欠落しているためである(第2章)。
以下に私見を述べる。この章は、本書の中心的概念を説明した第1章と第2章の例証として、理解しやすく、わかりやすいものであった。しかし、この章では、欧米社会における、ある程度はっきりとした社会階層の存在が前提となっており、この社会的儀礼論に即した犯罪理論の日本社会への適応可能性は別に検討しなければならないと思うので(そういう研究はあると思うが)、ここで少しだけ考えておきたいと思う。
欧米社会で、「被害者なき犯罪」を大々的に糾弾するのは、デュルケムの理論からいうと、道徳的感情に支えられた集団があるからである。例えば、欧米において、かつて「被害者なき犯罪」とされていた同性愛者に対するヘイトクライムが多いのも、それを悪だとするキリスト教の教えがあるからだというより、キリスト教の考えによって結び付けられた集団が存在するからだということができる。
一方、日本社会でも、「被害者なき犯罪」を忌み嫌って、批判する人たちも当然存在するが、インターネット上での誹謗中傷が連鎖のように起こる程度であろう。大々的に糾弾する運動に発展することはあまりないが、確かに、「被害者なき犯罪」に対する道徳的感情はあると思う。それを、道徳的感情とするならば、デュルケムは道徳的感情の発生の前提、原因に、集団、集団が要請する規範の存在があると考えるので、彼の理論を援用するならば、日本社会にも、道徳的感情を要請する何らかの集団があることになる。しかし、日本社会には欧米社会と違って、現実的な明白な階級が存在しないので、それは、観念的な集団ということになる。
要するに、日本社会に道徳的感情があるとするならば、日本社会には、ある道徳的規範(「常識」のようなもの)を強要し、それゆえ、高い道徳的感情、あるいは、「まともな」道徳的感情を成員がもつとみなされる観念的な集団が存在することになる。そして、その存在が観念的であるがゆえに、実際的な排他的な社会運動を可能とするだけの結束力までに育たないので、日本社会では排他的な社会運動が欧米社会に比べて少ないのだということができる。このような観念的集団の存在を仮定すると、日本における処罰等々も、デュルケムがいうような、集団の存続をめぐる社会的儀礼といえるのかもしれない。
罪と罰を読んだのは1年前なのですが、SNSで書いたレビュー(感想文)にアレンジを加えて、読書日記に加えておきます。
今まで読んだ本でレビューを残しているものをあげてもいいのですが、何か無意味なような気もするので、特に僕が読んで大きく揺さぶられたもののみ限定して、
当時の読みと、現在の振り返りをあわせたものにします。
かつては、20歳になるまでに読むべき本といわれた本書。
絶望的なニヒリズムからの人間性の回復を期待するヒューマニズム小説。ニヒリストの心理状態を描写した傑作。ニヒリズムがテーマなだけに全体的に暗い。ペテルブルクが舞台。
主人公のラスコーニコフの思想モデルはドストエフスキー自身の若い頃のもので、自らも政治犯で牢獄に入っていることも相関している。
「罪と罰」の「罪」と「罰」とは何か。
世界史の「罪」とはなにかがひとつのテーマとなっている。
当時、ナポレオンの登場はヨーロッパを震撼させた。
ナポレオンは現状の秩序を破壊しつくし、自ら新しい秩序となる法律「ナポレオン法典」を制定した。
ナポレオンは破壊される旧秩序の権力体から見れば「罪」を犯したことになり、「罰」を受けるべきなのである。しかし、ナポレオンは自ら、新しい秩序を作り上げた。
ナポレオンは運よく旧秩序を破壊しつくし、罰せられずには済んだが、そうでなく、既存の法で罰せられた「非凡人」も存在する。例えば、イエス、ソクラテスは共に、処刑され、宗教改革者フスは火刑にあっている。
主人公のラスコーリニコフの持論では、人間は凡人と非凡人のふたつに大別され、凡人は現行の秩序に服従する義務があり、選ばれたごく少数の非凡人は全体的な正義のためならば、革命によって現行秩序を壊し、新しい秩序を立てる権利があると考える。
イエスやキリストのような「非凡人」の「罪」はそのときのほうによるものでなく、良心の呵責という「罰」で罰せられるべきだという。
本文から抜粋すると、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」から「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」のである。
ナポレオンはまさしく非凡人なのである。
しかし、傲慢な学生は自らを非凡人だと考え、自分の思想、信条、価値観は絶対的なものだと考える。
ラスコーリニコフもその一人であり、貧乏で頼りのない境遇で、お金がないために大学をやめた。そこで、凡人とみなされた強欲な高利貸しの老婆から蓄えた金を奪って、自分が使えば、社会の正義に利用できると考え、殺害することを思い立ち、色んな偶然が重なった上で、老婆と罪のない妹を殺害してしまうことになった。(ちなみに、最後まで主人公は老婆を殺したこと自体を後悔することはない。)
それがきっかけで、主人公は発狂していく。自分は凡人の部類に入ることを悟り、絶望したのである。
なぜなら、本当に非凡人なら凡人を殺したところで、それは権利を行使しただけにすぎず、気にも留めないが、自分は凡人であるがゆえに凡人を殺した「罪」の意識に理性を失ってしまったからである。
その後、娼婦ソーニャとの出会いがラスコーリニコフを自首させ、ニヒリズムから救い出してくれる。
これこそドストエフスキーは書きたかったことであり、そのニヒリズムからの人間性の回復を熱烈に期待したのである。
自分の理論、信条、価値観が絶対だと過信する若者がはびこっているのは今も変わらない。
しかし、自分が無力で何もできないと気づいた学生はニヒリズムに陥っていく。
そういった学生の傲慢な態度からどうすれば抜け出せるか。
また自分の無力を悟ったあとのニヒリズムの極致からどうすれば抜け出せるか。
答えは「罪と罰」を読めば書いてある。
ラスコーリニコフは自分の論理で人を殺したが、それは自らを破滅に追いやった。
このように、人間の本性を排除した理性中心の思想は、人間を破滅するということを示唆したこの作品は、ニーチェに影響を与え、さらに、西洋的理性信仰を否定する現代思想に大きな影響を与えた。とても、19世紀にかかれたものだとは考えられない、進んだ思想である。
主人公と家族、友人、予審判事などとのやりとりも面白いし(恋愛もあるし)、当時のロシア社会の描写がよい。主人公の心の葛藤など内面描写が中心で読みやすい。
何回も読み返したい。そのときどきで、得られるものも変わってくるのでしょう。さすが不朽の名作。
二回目以降読んだ感想をまたレビューで書きます。
すべての学生に勧めます。 2007 8 1(文章をやや改定)
僕は2007年当時、本書で最も共鳴した箇所は、「学生のエゴイズム」である。
現実を知らないが故に、大きな理想を抱くことを許される時代。それが大学生期ではないか。
その妄想は、いささか誇大であり、現実離れしているものの、そこには力が漲っている。
しかし、就職活動や課外活動を経て、色んな他者に出会ったとき、己の無力さを実感するのである。
この無力感は、時に人を、誤った方向、すなわち、何らかの(企業など)ブランドの権威にすがろうとしたり、
社会からの逃避を招くのではないか。
青年期からプレ成人期への移行における、社会化の過程の原動力は、この無力感からの救いにあるのではないか。
これはよくないのである。
権威主義的パーソナリティの誕生であり、自律ではありえないのである。
しかし、この無力感の根源である「大学生のエゴイズム」は、子どものような純粋さ、うぶなものを持っているように思う。子どもの「なぜ?の連鎖」の好奇心に通ずるものがあるのではないか。
そういったものを喪失して、多くの人は、「大人」となっていくのではないだろうか。
しかし、今の僕が『罪と罰』を読めば、違った読みになるだろう。
もはや、俺にとって、大学生のエゴイズムは問題意識にはない。
問題意識は、ニヒリズムの克服を「恋愛」と「神」にドストエフスキーは求めた点である。
ラスコーリニコフは、今まで見向きもしなかった「恋愛」と「神」
理性ではなく、感情や直観に関わる、それ。
中学、高校とまともな恋愛をした経験がない「マジメ」な、あるいは「ふつう」な大学生、日本社会のそれなりの文化資本を持った学生は、意外とこういう人が多いと思うのであるが、こういった人たちが大学に入り直面する問題はこれなのではないか。
さすれば、そういうある層の人たちのライフコースの類型化も研究してみるとおもしろそうという妄想はさておき、
次、読むときは、まさしく、その問題、
特に、なぜ、ラスコーリニコフの「相手」は娼婦でなければならなかったのか。
そのあたりに重点を置いて読んでみたいものである。