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2025.07.22 - 
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脱常識の社会学/ランドル・コリンズ

2009.02.22 - 社会学
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R・コリンズの『脱常識の社会学』

全体的に読みやすい。


我々が合理的だと思っていることがいかに非合理的な基盤の上に成立しているか。(契約の問題)

道徳的感情はなぜ発生するのか。(宗教の問題 デュルケームの宗教社会学の理論)

など第1・2章では、本書のキー概念が説明され、続く3つの章で、権力・犯罪・愛の各論が論じられている。


やはり、「儀礼」・「象徴」が社会で果たす役割が、それは人々を結びつけたり、日ごろの感情を規定したりしてるのだが、それが本書のテーマとなっている。


あとがきに、

問題を正しく把握する唯一の方法は、変化型を探してみることである。


とあるように、ある社会システム(結婚制度など)が、同時代の異なる社会ではどのように異なるのか、また歴史的にどのように変化してきたのかを、比較するという分析手法が用いられている。

これは、比較社会学や歴史社会学のポピュラーな手法で、それが実に鮮やかに問題を浮き彫りにしていき、その様が明快である。


各論では、

犯罪に対する様々な学説が取り上げられ、最後にデュルケームの犯罪理論で落とすのはおもしろいし、

性と愛の関係が歴史的にどのように変遷し、それがヴィクトリア朝の「愛の革命」でいかにして劇的に変わったか、そして、現在それはどうなっているのかの一連の議論は、とてもわかりやすく、興味深い。


現代社会を考察上で(特に集団の問題)、とても有効となりうる視座を、わかりやすく提供してくれる良書であると思う。


最後に、第4章をテーマにして、ゼミで発表したレジュメを貼り付けておく。


『脱常識の社会学』の第4章「犯罪の常態性」の中の、犯罪についてのデュルケムの理論に関心を持ったので、それを簡単にまとめ、私見を加えて、レポートとする。

 犯罪とその処罰は社会的儀礼として、社会構造を支える基本的な部分である。とりわけ、麻薬、ギャンブル、売春などの「被害者なき犯罪」について、それらは、社会を支配する集団にとって、彼らが考える正義の理念に反するものであるとされ(犯罪は作られる)、それらに対して、憤慨するという道徳的感情をもち、それに基づく反対運動などの行為によって、彼らはこの社会において「まともな」成員なのだと了解する。犯罪者の罪状を問う法廷や警察も儀礼であり、それは、被告人に対する儀礼ではなく、公衆に向けてなされる儀礼である。つまり、犯罪への怒りが社会の階層秩序を正当化し、犯罪処罰の儀礼によって、集団は結束を保っているのである。


 以上が、この章で強調されたデュルケムの犯罪理論であるが、これは、ある特定の集団がその結束を維持するための装置として、犯罪や処罰が社会の中に組み込まれているという図式を描いたものである。一方で、下位階層者とされ、大きな集団としての結束や連帯感のない集団については、それぞれが孤立した個人、あるいは、孤立した小集団であり、彼らは、自分の利益のみを追求する「合理的」な個人であり、常に合理的になろうとするので、不正行為を選択し(第1章)、特定の社会において、犯罪者となるのである。それは、彼らには統合された集団に属することでもつに至る道徳的感情が欠落しているためである(第2章)。


 以下に私見を述べる。この章は、本書の中心的概念を説明した第1章と第2章の例証として、理解しやすく、わかりやすいものであった。しかし、この章では、欧米社会における、ある程度はっきりとした社会階層の存在が前提となっており、この社会的儀礼論に即した犯罪理論の日本社会への適応可能性は別に検討しなければならないと思うので(そういう研究はあると思うが)、ここで少しだけ考えておきたいと思う。


 欧米社会で、「被害者なき犯罪」を大々的に糾弾するのは、デュルケムの理論からいうと、道徳的感情に支えられた集団があるからである。例えば、欧米において、かつて「被害者なき犯罪」とされていた同性愛者に対するヘイトクライムが多いのも、それを悪だとするキリスト教の教えがあるからだというより、キリスト教の考えによって結び付けられた集団が存在するからだということができる。


 一方、日本社会でも、「被害者なき犯罪」を忌み嫌って、批判する人たちも当然存在するが、インターネット上での誹謗中傷が連鎖のように起こる程度であろう。大々的に糾弾する運動に発展することはあまりないが、確かに、「被害者なき犯罪」に対する道徳的感情はあると思う。それを、道徳的感情とするならば、デュルケムは道徳的感情の発生の前提、原因に、集団、集団が要請する規範の存在があると考えるので、彼の理論を援用するならば、日本社会にも、道徳的感情を要請する何らかの集団があることになる。しかし、日本社会には欧米社会と違って、現実的な明白な階級が存在しないので、それは、観念的な集団ということになる。


 要するに、日本社会に道徳的感情があるとするならば、日本社会には、ある道徳的規範(「常識」のようなもの)を強要し、それゆえ、高い道徳的感情、あるいは、「まともな」道徳的感情を成員がもつとみなされる観念的な集団が存在することになる。そして、その存在が観念的であるがゆえに、実際的な排他的な社会運動を可能とするだけの結束力までに育たないので、日本社会では排他的な社会運動が欧米社会に比べて少ないのだということができる。このような観念的集団の存在を仮定すると、日本における処罰等々も、デュルケムがいうような、集団の存続をめぐる社会的儀礼といえるのかもしれない。

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ティファニーで朝食を/カポーティ

2009.02.12 - 文学作品
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『ティファニーで朝食を』を読みました。これは去年の12月のレビュー、感想文です。


主人公の女の住所は「旅行中」

ハリウッドの与える栄光を拒否し、自由気ままに生きる女。

でもそれは、自分の居場所を見つける旅行の途中だから。

ティファニーで朝食を食べるような理想の場所を探す旅の途中だから。



読んでて思ったのは、まさに自分も旅行中だなと。

その日限りでもう会うことはなかったり、ちょっとした縁で友達になったり。

付き合っては別れ、別れては付き合っての繰り返し。

時にはそれに疲れ、嫌になりながらも、懲りずに恋をする。

みんな「居場所」を見つける旅人なんじゃないですかね。

空に浮かぶ一筋の浮雲のように、僕らは夢みて、どこに流れていくのか。



彼女は、名前を付けていない猫を逃がしてしまうのですが、すごく後悔をする。

悲しいかな、どんな自由な浮雲も一人悠然と流れるにはちと厳しいのかな。




としみじみモードです。


僕にティファニーで朝食を向かえられるときはやって来るのでしょうかね。笑


なんか、案外、恋愛系の純文学が好きだったり。笑

自負と偏見/ジェーン・オースティン

2009.02.11 - 文学作品
 
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ジェーン・オースティンの『自負と偏見』を読みました。これも過去のレビュー、感想文に大きく手を加えたものです。
中村好夫の名翻訳のものを読みましょう。


舞台はイギリス摂政時代。よくヴィクトリア朝と勘違いされるらしい。

当時のアッパーミドルクラスの人々の生活スタイルがよくわかっておもしろい。

ジェーン・オースティンは、小説の中の世界をできるだけ現実世界と同じようなものにしようとしたので、当時の人々の階級意識など、なかなか表徴されてもわかりにくいものを知るいい資料になるそうだ。

このレビューで当時のアッパーミドル階級の階級意識の問題が複雑に結婚や財産の問題に関わっている云々については触れることはしない。(散々英文学のレポートで書いたので)

『自負と偏見のイギリス文化 Jオースティンの世界』(新井潤美著 岩波書店)がそれに詳しい。





ジェントリー階級の古くからの資産家で年収1万ポンドのダーシー。

当時のジェントリー階級は資産からの収入でのみ生活を立てていたのだが、同じ階級のものでも、親戚に職業についているものがいれば、ことごとく軽蔑する。

つまり、ダーシーは、階級意識から、また自分は紳士だという誇りから、ものすごく「自負」心が強い男。


一方で、同じジェントリ階級とはいえ、さほど裕福ではないエリザベス。

母や妹たちの品行の悪さに悩まされ、専ら社交界で嘲笑の的に。機転がきき、芯が通っているエリザベスは、ダーシーは自分達をはじめ、身分の低い(といっても同じアッパーミドル階級だが)人たちを馬鹿にし、ひどい仕打ちをする、紳士とは全く正反対のものだという「偏見」をもつ。


この、

プライドの高い男 と 偏見をもった女

が、いかにして、自分の頑なさに気づき、お互い惹かれあっていくのか。

が本作品の眼目ですね。


これが、当時のイギリス文化という枠組みの中で繰り広げられていく。

実におもしろい作品。


本作品で、「愚かな女」がよく出てくる。

なかでも、エリザベスの母、ミセス・ベネット。彼女は自分の娘をはやく嫁に出すことしか考えてない愚かな女として描かれている。

彼女に皮肉をいうミスター・ベネット、それにすら気づかないミセス・ベネットのやりとりは痛快そのものだ。




ああ、俺もこんな恋愛がしたいなと思いました。



自分のプライドなど、あなたのためなら取るに足りない!むしろ、あなたを好きでいられること、それが俺のプライドだ!みたいに思わせてくれるような人と出会いたいと思いましたね~

ま、それにしても、エリザベスみたいに、あまり知らない人に偏見を持つことはよくないですよね。
せっかくの出会いも台無しになってしまいかねない。
なかなか難しいことだけどね~


でも逆に、気に入った人を勝手にいいように解釈するのもよくないよね。
ほんで、よくよく知ってみると、自分の理想とは真逆だったってこともありえますからね。


そして自負の問題。

プライドって生きていく上ではとても大事だと思うけどね。

だからといって、プライドが高くて、虚栄心で、取るに足らないことを何でも自慢したがる人があちこちにいるけど、人を不快にさせるほどのプライド、虚栄心をもつって、すごく不幸なことですよね。本人はいい気になっているもんだから、忠告する気にもなれないけど。

プライドは隠してなんぼ、自然と威厳が伝わるぐらいじゃないとなあ。


明らかにプライドを鼻にかけたダーシーをエリザベスが嫌悪したのと同じように、いくら地位や名誉あっても、それを鼻にかけたり、あからさまな横柄な態度をとる人は、紳士じゃないですしね~


「自負」と「偏見」が恋を邪魔するなんて、なにも18世紀のイギリスに限ったことじゃない。

だから、そのことを延々に語っても、きりがないので、ここまでにしとく


この問題は現代の恋事情にも十分、当てはまるし、

今、恋している人には特に読んでもらいたい作品だと思う。

異邦人/カミュ

2009.01.24 - 文学作品
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去年の10月のレビュー・感想文の改定版ですが、カミュの『異邦人』ははずせないと思い、ここに入れます。
 

主人公のムルソーは母の死の次の日に海水浴に行き、そこで会った知り合いの女と情事にふけり、映画を見て笑いこけ、ふとしたきっかけで人を殺し、その動機を「太陽のせい」という。


彼は裁判にかけられ、母の死には意味はないとし、悲しまなかったという理由から、本来ならば死刑にならなかったのにも関わらず、死刑の判決を受け、そして、彼も特赦請願も出さない。


ムルソーにとって、この世には意味というものはなく、今日明日が楽しければそれでいい。

母の死も囚人生活も慣れればなんてこともない、そもそもそんなことは取るに足りないという。

母を愛している。感謝もしている。

でも、そのことに何の意味がある。母が死んだとしても、私には意味をなさない。

自分が今日死のうと、30年後死のうと何の違いがあるというのだ。

自分の人生に意味なんてないのに。


世界は意味もなく存在し、そこにはただの偶然性しかない。

人間はそこに意味や希望を求めたがるが、そんな希望とは無関係に世界はただそれ自体として存在する。

それゆえ、世界は論理性などなく、矛盾に満ち、「不条理」が溢れている。


人は無意味な世界に意味を求めたがる。意味があると信じたがる。
何か価値があると信じたがる。

そうでないと不安でしかたがないのだ。

それ故に、世界を無意味だとして生きるムルソーは、その根本を揺るがす存在として恐怖なのである。

世界や自分の人生に意味があるのだという人々のドクサ、あるいは生きるために必要であるその切実な思い込みが、彼を殺したのである。



というのが、大体のアウトラインです。


主人公のムルソーの気持ちわかります。

主人公みたく、人生に意味はないのだから、と死刑を引き受けるほど徹底して自分の信念を押し通すことはすごいことだと思う。

(いくら悪法でも法を守ることが正義だとして、自分の信念を貫き死刑を引き受けたソクラテスを想起する)


俺も実存の問題に関しては「絶望的な」立場を取るので、主人公のムルソーの気持ちわかるし、共感はあった。

自分がいてもいなくても、特に世界には何の影響もないと思うし、仮に影響があっても、それが何の意味があるのだと思う。
 
(そうじゃない!お互い助け合って云々を言い出す人の気持ちはわかります。意味はあると信じたくて必死なんですね)

カミュとサルトルの意見はえらい違って、

サルトルは、「私は私を選ぶことによって、全人類を選ぶ」

なんていって、アンガーシュマンを呼びかけているけど、まあ確かに断面はとらえているように思うけど、だから何って思うわけ。

自分の人生の意味なんてぐだぐだ考えるんじゃなくて、無意味な人生を受け入れて、自分の好きなことをしたい。
 
「生きる意味」こそ、自分勝手な都合のよい妄想そのもので、そのようなものの詮索に労を費やしたくはないのだ。

それが当の個人にとって、生きがいを与え、力を与えてくれるならば、有用であるとは思うが、それは今度いつ自分の刃を向けるかもしれない、諸刃の剣であることを、「生きる意味」を見出すことの成功している人は、少なくとも自覚する必要があると思う。

ここから私の個人的な人生の考えですが、

よくよく自分の過去を振り返ってみれば、しばしば見受けられる、逸脱傾向は、昔から、誰かが俺に言ってくることなんて、意味をなさないと考えていたからなんかなって思うと、大分しみついた考えだなと思う。


世間から見れば、負け組のような人生を歩むことの可能性は大ですな。

この前、親に30までは遊ぶからって言ったけど、もちろん、何らかの形で家にお金は入れますが。


こんなことを言ったら、当然、親への感謝、周りの人への感謝を忘れているというお叱りをよく受けますが、

感謝してあまりないぐらい、しているつもり。

筋を通す、は家風ですから。


でも、その感謝をするためだけに、自分の無意味な人生を使うつもりはない。

だって、そんなの楽しくないじゃない。

少なくとも俺にとっては。

そういうことができる人間がすればいいんじゃないかな。


楽しいことをしてそれが意味になるわけではないです。


そんな、自分の人生に何か意味があるとか、その類の希望は、妥協した後の絶望しか招かない。

縮小し続ける自我像のようなね。(これは『罪と罰』の学生論と重ねて考えてみると面白そうだ)


ムルソーみたく、自分の死を引き受けるつもりはないが、最低、親が死ぬまでは生きなければならないと思う。

ここがムルソーと違う点ですが、現世は永劫回帰するのではなく、死んだら神のところにいって、幸せになれると俺は信じているのだからね。

罪と罰/ドストエフスキー

2009.01.18 - 文学作品

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罪と罰を読んだのは1年前なのですが、SNSで書いたレビュー(感想文)にアレンジを加えて、読書日記に加えておきます。

今まで読んだ本でレビューを残しているものをあげてもいいのですが、何か無意味なような気もするので、特に僕が読んで大きく揺さぶられたもののみ限定して、

当時の読みと、現在の振り返りをあわせたものにします。


かつては、20歳になるまでに読むべき本といわれた本書。

絶望的なニヒリズムからの人間性の回復を期待するヒューマニズム小説。ニヒリストの心理状態を描写した傑作。ニヒリズムがテーマなだけに全体的に暗い。ペテルブルクが舞台。

主人公のラスコーニコフの思想モデルはドストエフスキー自身の若い頃のもので、自らも政治犯で牢獄に入っていることも相関している。

「罪と罰」の「罪」と「罰」とは何か。

世界史の「罪」とはなにかがひとつのテーマとなっている。

当時、ナポレオンの登場はヨーロッパを震撼させた。
ナポレオンは現状の秩序を破壊しつくし、自ら新しい秩序となる法律「ナポレオン法典」を制定した。
ナポレオンは破壊される旧秩序の権力体から見れば「罪」を犯したことになり、「罰」を受けるべきなのである。しかし、ナポレオンは自ら、新しい秩序を作り上げた。
ナポレオンは運よく旧秩序を破壊しつくし、罰せられずには済んだが、そうでなく、既存の法で罰せられた「非凡人」も存在する。例えば、イエス、ソクラテスは共に、処刑され、宗教改革者フスは火刑にあっている。

主人公のラスコーリニコフの持論では、人間は凡人と非凡人のふたつに大別され、凡人は現行の秩序に服従する義務があり、選ばれたごく少数の非凡人は全体的な正義のためならば、革命によって現行秩序を壊し、新しい秩序を立てる権利があると考える。
イエスやキリストのような「非凡人」の「罪」はそのときのほうによるものでなく、良心の呵責という「罰」で罰せられるべきだという。

本文から抜粋すると、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」から「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」のである。

ナポレオンはまさしく非凡人なのである。

しかし、傲慢な学生は自らを非凡人だと考え、自分の思想、信条、価値観は絶対的なものだと考える。
ラスコーリニコフもその一人であり、貧乏で頼りのない境遇で、お金がないために大学をやめた。そこで、凡人とみなされた強欲な高利貸しの老婆から蓄えた金を奪って、自分が使えば、社会の正義に利用できると考え、殺害することを思い立ち、色んな偶然が重なった上で、老婆と罪のない妹を殺害してしまうことになった。(ちなみに、最後まで主人公は老婆を殺したこと自体を後悔することはない。)

それがきっかけで、主人公は発狂していく。自分は凡人の部類に入ることを悟り、絶望したのである。
なぜなら、本当に非凡人なら凡人を殺したところで、それは権利を行使しただけにすぎず、気にも留めないが、自分は凡人であるがゆえに凡人を殺した「罪」の意識に理性を失ってしまったからである。

その後、娼婦ソーニャとの出会いがラスコーリニコフを自首させ、ニヒリズムから救い出してくれる。
これこそドストエフスキーは書きたかったことであり、そのニヒリズムからの人間性の回復を熱烈に期待したのである。

自分の理論、信条、価値観が絶対だと過信する若者がはびこっているのは今も変わらない。
しかし、自分が無力で何もできないと気づいた学生はニヒリズムに陥っていく。

そういった学生の傲慢な態度からどうすれば抜け出せるか。
また自分の無力を悟ったあとのニヒリズムの極致からどうすれば抜け出せるか。

答えは「罪と罰」を読めば書いてある。

ラスコーリニコフは自分の論理で人を殺したが、それは自らを破滅に追いやった。
このように、人間の本性を排除した理性中心の思想は、人間を破滅するということを示唆したこの作品は、ニーチェに影響を与え、さらに、西洋的理性信仰を否定する現代思想に大きな影響を与えた。とても、19世紀にかかれたものだとは考えられない、進んだ思想である。

主人公と家族、友人、予審判事などとのやりとりも面白いし(恋愛もあるし)、当時のロシア社会の描写がよい。主人公の心の葛藤など内面描写が中心で読みやすい。

何回も読み返したい。そのときどきで、得られるものも変わってくるのでしょう。さすが不朽の名作。

二回目以降読んだ感想をまたレビューで書きます。

すべての学生に勧めます。                  2007 8 1(文章をやや改定)




僕は2007年当時、本書で最も共鳴した箇所は、「学生のエゴイズム」である。

現実を知らないが故に、大きな理想を抱くことを許される時代。それが大学生期ではないか。

その妄想は、いささか誇大であり、現実離れしているものの、そこには力が漲っている。


しかし、就職活動や課外活動を経て、色んな他者に出会ったとき、己の無力さを実感するのである。

この無力感は、時に人を、誤った方向、すなわち、何らかの(企業など)ブランドの権威にすがろうとしたり、

社会からの逃避を招くのではないか。


青年期からプレ成人期への移行における、社会化の過程の原動力は、この無力感からの救いにあるのではないか。

これはよくないのである。

権威主義的パーソナリティの誕生であり、自律ではありえないのである。


しかし、この無力感の根源である「大学生のエゴイズム」は、子どものような純粋さ、うぶなものを持っているように思う。子どもの「なぜ?の連鎖」の好奇心に通ずるものがあるのではないか。


そういったものを喪失して、多くの人は、「大人」となっていくのではないだろうか。



しかし、今の僕が『罪と罰』を読めば、違った読みになるだろう。

もはや、俺にとって、大学生のエゴイズムは問題意識にはない。

問題意識は、ニヒリズムの克服を「恋愛」と「神」にドストエフスキーは求めた点である。


ラスコーリニコフは、今まで見向きもしなかった「恋愛」と「神」


理性ではなく、感情や直観に関わる、それ。


中学、高校とまともな恋愛をした経験がない「マジメ」な、あるいは「ふつう」な大学生、日本社会のそれなりの文化資本を持った学生は、意外とこういう人が多いと思うのであるが、こういった人たちが大学に入り直面する問題はこれなのではないか。


さすれば、そういうある層の人たちのライフコースの類型化も研究してみるとおもしろそうという妄想はさておき、


次、読むときは、まさしく、その問題、

特に、なぜ、ラスコーリニコフの「相手」は娼婦でなければならなかったのか。


そのあたりに重点を置いて読んでみたいものである。

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 プロフィール 
HN:
いちひろ
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1988/02/01
職業:
大学生
趣味:
読書、バックパッカー、水泳
自己紹介:
三重県鈴鹿市生まれ。

小中高生の時期を大阪府で過ごす。

現在は京都府在住。

ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
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