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2025.07.17 - 
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自負と偏見/ジェーン・オースティン

2009.02.11 - 文学作品
 
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ジェーン・オースティンの『自負と偏見』を読みました。これも過去のレビュー、感想文に大きく手を加えたものです。
中村好夫の名翻訳のものを読みましょう。


舞台はイギリス摂政時代。よくヴィクトリア朝と勘違いされるらしい。

当時のアッパーミドルクラスの人々の生活スタイルがよくわかっておもしろい。

ジェーン・オースティンは、小説の中の世界をできるだけ現実世界と同じようなものにしようとしたので、当時の人々の階級意識など、なかなか表徴されてもわかりにくいものを知るいい資料になるそうだ。

このレビューで当時のアッパーミドル階級の階級意識の問題が複雑に結婚や財産の問題に関わっている云々については触れることはしない。(散々英文学のレポートで書いたので)

『自負と偏見のイギリス文化 Jオースティンの世界』(新井潤美著 岩波書店)がそれに詳しい。





ジェントリー階級の古くからの資産家で年収1万ポンドのダーシー。

当時のジェントリー階級は資産からの収入でのみ生活を立てていたのだが、同じ階級のものでも、親戚に職業についているものがいれば、ことごとく軽蔑する。

つまり、ダーシーは、階級意識から、また自分は紳士だという誇りから、ものすごく「自負」心が強い男。


一方で、同じジェントリ階級とはいえ、さほど裕福ではないエリザベス。

母や妹たちの品行の悪さに悩まされ、専ら社交界で嘲笑の的に。機転がきき、芯が通っているエリザベスは、ダーシーは自分達をはじめ、身分の低い(といっても同じアッパーミドル階級だが)人たちを馬鹿にし、ひどい仕打ちをする、紳士とは全く正反対のものだという「偏見」をもつ。


この、

プライドの高い男 と 偏見をもった女

が、いかにして、自分の頑なさに気づき、お互い惹かれあっていくのか。

が本作品の眼目ですね。


これが、当時のイギリス文化という枠組みの中で繰り広げられていく。

実におもしろい作品。


本作品で、「愚かな女」がよく出てくる。

なかでも、エリザベスの母、ミセス・ベネット。彼女は自分の娘をはやく嫁に出すことしか考えてない愚かな女として描かれている。

彼女に皮肉をいうミスター・ベネット、それにすら気づかないミセス・ベネットのやりとりは痛快そのものだ。




ああ、俺もこんな恋愛がしたいなと思いました。



自分のプライドなど、あなたのためなら取るに足りない!むしろ、あなたを好きでいられること、それが俺のプライドだ!みたいに思わせてくれるような人と出会いたいと思いましたね~

ま、それにしても、エリザベスみたいに、あまり知らない人に偏見を持つことはよくないですよね。
せっかくの出会いも台無しになってしまいかねない。
なかなか難しいことだけどね~


でも逆に、気に入った人を勝手にいいように解釈するのもよくないよね。
ほんで、よくよく知ってみると、自分の理想とは真逆だったってこともありえますからね。


そして自負の問題。

プライドって生きていく上ではとても大事だと思うけどね。

だからといって、プライドが高くて、虚栄心で、取るに足らないことを何でも自慢したがる人があちこちにいるけど、人を不快にさせるほどのプライド、虚栄心をもつって、すごく不幸なことですよね。本人はいい気になっているもんだから、忠告する気にもなれないけど。

プライドは隠してなんぼ、自然と威厳が伝わるぐらいじゃないとなあ。


明らかにプライドを鼻にかけたダーシーをエリザベスが嫌悪したのと同じように、いくら地位や名誉あっても、それを鼻にかけたり、あからさまな横柄な態度をとる人は、紳士じゃないですしね~


「自負」と「偏見」が恋を邪魔するなんて、なにも18世紀のイギリスに限ったことじゃない。

だから、そのことを延々に語っても、きりがないので、ここまでにしとく


この問題は現代の恋事情にも十分、当てはまるし、

今、恋している人には特に読んでもらいたい作品だと思う。
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異邦人/カミュ

2009.01.24 - 文学作品
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去年の10月のレビュー・感想文の改定版ですが、カミュの『異邦人』ははずせないと思い、ここに入れます。
 

主人公のムルソーは母の死の次の日に海水浴に行き、そこで会った知り合いの女と情事にふけり、映画を見て笑いこけ、ふとしたきっかけで人を殺し、その動機を「太陽のせい」という。


彼は裁判にかけられ、母の死には意味はないとし、悲しまなかったという理由から、本来ならば死刑にならなかったのにも関わらず、死刑の判決を受け、そして、彼も特赦請願も出さない。


ムルソーにとって、この世には意味というものはなく、今日明日が楽しければそれでいい。

母の死も囚人生活も慣れればなんてこともない、そもそもそんなことは取るに足りないという。

母を愛している。感謝もしている。

でも、そのことに何の意味がある。母が死んだとしても、私には意味をなさない。

自分が今日死のうと、30年後死のうと何の違いがあるというのだ。

自分の人生に意味なんてないのに。


世界は意味もなく存在し、そこにはただの偶然性しかない。

人間はそこに意味や希望を求めたがるが、そんな希望とは無関係に世界はただそれ自体として存在する。

それゆえ、世界は論理性などなく、矛盾に満ち、「不条理」が溢れている。


人は無意味な世界に意味を求めたがる。意味があると信じたがる。
何か価値があると信じたがる。

そうでないと不安でしかたがないのだ。

それ故に、世界を無意味だとして生きるムルソーは、その根本を揺るがす存在として恐怖なのである。

世界や自分の人生に意味があるのだという人々のドクサ、あるいは生きるために必要であるその切実な思い込みが、彼を殺したのである。



というのが、大体のアウトラインです。


主人公のムルソーの気持ちわかります。

主人公みたく、人生に意味はないのだから、と死刑を引き受けるほど徹底して自分の信念を押し通すことはすごいことだと思う。

(いくら悪法でも法を守ることが正義だとして、自分の信念を貫き死刑を引き受けたソクラテスを想起する)


俺も実存の問題に関しては「絶望的な」立場を取るので、主人公のムルソーの気持ちわかるし、共感はあった。

自分がいてもいなくても、特に世界には何の影響もないと思うし、仮に影響があっても、それが何の意味があるのだと思う。
 
(そうじゃない!お互い助け合って云々を言い出す人の気持ちはわかります。意味はあると信じたくて必死なんですね)

カミュとサルトルの意見はえらい違って、

サルトルは、「私は私を選ぶことによって、全人類を選ぶ」

なんていって、アンガーシュマンを呼びかけているけど、まあ確かに断面はとらえているように思うけど、だから何って思うわけ。

自分の人生の意味なんてぐだぐだ考えるんじゃなくて、無意味な人生を受け入れて、自分の好きなことをしたい。
 
「生きる意味」こそ、自分勝手な都合のよい妄想そのもので、そのようなものの詮索に労を費やしたくはないのだ。

それが当の個人にとって、生きがいを与え、力を与えてくれるならば、有用であるとは思うが、それは今度いつ自分の刃を向けるかもしれない、諸刃の剣であることを、「生きる意味」を見出すことの成功している人は、少なくとも自覚する必要があると思う。

ここから私の個人的な人生の考えですが、

よくよく自分の過去を振り返ってみれば、しばしば見受けられる、逸脱傾向は、昔から、誰かが俺に言ってくることなんて、意味をなさないと考えていたからなんかなって思うと、大分しみついた考えだなと思う。


世間から見れば、負け組のような人生を歩むことの可能性は大ですな。

この前、親に30までは遊ぶからって言ったけど、もちろん、何らかの形で家にお金は入れますが。


こんなことを言ったら、当然、親への感謝、周りの人への感謝を忘れているというお叱りをよく受けますが、

感謝してあまりないぐらい、しているつもり。

筋を通す、は家風ですから。


でも、その感謝をするためだけに、自分の無意味な人生を使うつもりはない。

だって、そんなの楽しくないじゃない。

少なくとも俺にとっては。

そういうことができる人間がすればいいんじゃないかな。


楽しいことをしてそれが意味になるわけではないです。


そんな、自分の人生に何か意味があるとか、その類の希望は、妥協した後の絶望しか招かない。

縮小し続ける自我像のようなね。(これは『罪と罰』の学生論と重ねて考えてみると面白そうだ)


ムルソーみたく、自分の死を引き受けるつもりはないが、最低、親が死ぬまでは生きなければならないと思う。

ここがムルソーと違う点ですが、現世は永劫回帰するのではなく、死んだら神のところにいって、幸せになれると俺は信じているのだからね。

罪と罰/ドストエフスキー

2009.01.18 - 文学作品

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罪と罰を読んだのは1年前なのですが、SNSで書いたレビュー(感想文)にアレンジを加えて、読書日記に加えておきます。

今まで読んだ本でレビューを残しているものをあげてもいいのですが、何か無意味なような気もするので、特に僕が読んで大きく揺さぶられたもののみ限定して、

当時の読みと、現在の振り返りをあわせたものにします。


かつては、20歳になるまでに読むべき本といわれた本書。

絶望的なニヒリズムからの人間性の回復を期待するヒューマニズム小説。ニヒリストの心理状態を描写した傑作。ニヒリズムがテーマなだけに全体的に暗い。ペテルブルクが舞台。

主人公のラスコーニコフの思想モデルはドストエフスキー自身の若い頃のもので、自らも政治犯で牢獄に入っていることも相関している。

「罪と罰」の「罪」と「罰」とは何か。

世界史の「罪」とはなにかがひとつのテーマとなっている。

当時、ナポレオンの登場はヨーロッパを震撼させた。
ナポレオンは現状の秩序を破壊しつくし、自ら新しい秩序となる法律「ナポレオン法典」を制定した。
ナポレオンは破壊される旧秩序の権力体から見れば「罪」を犯したことになり、「罰」を受けるべきなのである。しかし、ナポレオンは自ら、新しい秩序を作り上げた。
ナポレオンは運よく旧秩序を破壊しつくし、罰せられずには済んだが、そうでなく、既存の法で罰せられた「非凡人」も存在する。例えば、イエス、ソクラテスは共に、処刑され、宗教改革者フスは火刑にあっている。

主人公のラスコーリニコフの持論では、人間は凡人と非凡人のふたつに大別され、凡人は現行の秩序に服従する義務があり、選ばれたごく少数の非凡人は全体的な正義のためならば、革命によって現行秩序を壊し、新しい秩序を立てる権利があると考える。
イエスやキリストのような「非凡人」の「罪」はそのときのほうによるものでなく、良心の呵責という「罰」で罰せられるべきだという。

本文から抜粋すると、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」から「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」のである。

ナポレオンはまさしく非凡人なのである。

しかし、傲慢な学生は自らを非凡人だと考え、自分の思想、信条、価値観は絶対的なものだと考える。
ラスコーリニコフもその一人であり、貧乏で頼りのない境遇で、お金がないために大学をやめた。そこで、凡人とみなされた強欲な高利貸しの老婆から蓄えた金を奪って、自分が使えば、社会の正義に利用できると考え、殺害することを思い立ち、色んな偶然が重なった上で、老婆と罪のない妹を殺害してしまうことになった。(ちなみに、最後まで主人公は老婆を殺したこと自体を後悔することはない。)

それがきっかけで、主人公は発狂していく。自分は凡人の部類に入ることを悟り、絶望したのである。
なぜなら、本当に非凡人なら凡人を殺したところで、それは権利を行使しただけにすぎず、気にも留めないが、自分は凡人であるがゆえに凡人を殺した「罪」の意識に理性を失ってしまったからである。

その後、娼婦ソーニャとの出会いがラスコーリニコフを自首させ、ニヒリズムから救い出してくれる。
これこそドストエフスキーは書きたかったことであり、そのニヒリズムからの人間性の回復を熱烈に期待したのである。

自分の理論、信条、価値観が絶対だと過信する若者がはびこっているのは今も変わらない。
しかし、自分が無力で何もできないと気づいた学生はニヒリズムに陥っていく。

そういった学生の傲慢な態度からどうすれば抜け出せるか。
また自分の無力を悟ったあとのニヒリズムの極致からどうすれば抜け出せるか。

答えは「罪と罰」を読めば書いてある。

ラスコーリニコフは自分の論理で人を殺したが、それは自らを破滅に追いやった。
このように、人間の本性を排除した理性中心の思想は、人間を破滅するということを示唆したこの作品は、ニーチェに影響を与え、さらに、西洋的理性信仰を否定する現代思想に大きな影響を与えた。とても、19世紀にかかれたものだとは考えられない、進んだ思想である。

主人公と家族、友人、予審判事などとのやりとりも面白いし(恋愛もあるし)、当時のロシア社会の描写がよい。主人公の心の葛藤など内面描写が中心で読みやすい。

何回も読み返したい。そのときどきで、得られるものも変わってくるのでしょう。さすが不朽の名作。

二回目以降読んだ感想をまたレビューで書きます。

すべての学生に勧めます。                  2007 8 1(文章をやや改定)




僕は2007年当時、本書で最も共鳴した箇所は、「学生のエゴイズム」である。

現実を知らないが故に、大きな理想を抱くことを許される時代。それが大学生期ではないか。

その妄想は、いささか誇大であり、現実離れしているものの、そこには力が漲っている。


しかし、就職活動や課外活動を経て、色んな他者に出会ったとき、己の無力さを実感するのである。

この無力感は、時に人を、誤った方向、すなわち、何らかの(企業など)ブランドの権威にすがろうとしたり、

社会からの逃避を招くのではないか。


青年期からプレ成人期への移行における、社会化の過程の原動力は、この無力感からの救いにあるのではないか。

これはよくないのである。

権威主義的パーソナリティの誕生であり、自律ではありえないのである。


しかし、この無力感の根源である「大学生のエゴイズム」は、子どものような純粋さ、うぶなものを持っているように思う。子どもの「なぜ?の連鎖」の好奇心に通ずるものがあるのではないか。


そういったものを喪失して、多くの人は、「大人」となっていくのではないだろうか。



しかし、今の僕が『罪と罰』を読めば、違った読みになるだろう。

もはや、俺にとって、大学生のエゴイズムは問題意識にはない。

問題意識は、ニヒリズムの克服を「恋愛」と「神」にドストエフスキーは求めた点である。


ラスコーリニコフは、今まで見向きもしなかった「恋愛」と「神」


理性ではなく、感情や直観に関わる、それ。


中学、高校とまともな恋愛をした経験がない「マジメ」な、あるいは「ふつう」な大学生、日本社会のそれなりの文化資本を持った学生は、意外とこういう人が多いと思うのであるが、こういった人たちが大学に入り直面する問題はこれなのではないか。


さすれば、そういうある層の人たちのライフコースの類型化も研究してみるとおもしろそうという妄想はさておき、


次、読むときは、まさしく、その問題、

特に、なぜ、ラスコーリニコフの「相手」は娼婦でなければならなかったのか。


そのあたりに重点を置いて読んでみたいものである。

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 プロフィール 
HN:
いちひろ
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1988/02/01
職業:
大学生
趣味:
読書、バックパッカー、水泳
自己紹介:
三重県鈴鹿市生まれ。

小中高生の時期を大阪府で過ごす。

現在は京都府在住。

ラテンの血を引く。専ら、沖縄出身とか東南アジア出身者とかと間違われる。
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