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  <title>読書メモと一人ごと、そして戯言。</title>
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  <description>とある変人自由人による読書感想文兼エッセイ</description>
  <lastBuildDate>Tue, 13 Oct 2009 03:27:19 GMT</lastBuildDate>
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  <copyright>© Ninja Tools Inc.</copyright>
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    <item>
    <title>クロニクル社会学／有斐閣</title>
    <description>
    <![CDATA[またまたお勉強。<br />
<br />
<br />
この本は『社会学の理論』などの、テーマ横断的なテキストを読んでから読むことをすすめる。<br />
<br />
<br />
なぜなら、本書は、学者ごとの章立てなのだけど、それぞれの内容が結構濃いので、あまり知識がないと、うまく消化できないと思うし、難しくて理解できず、退屈になってしまうところもあるので（その章によるのだが）、いきなりな人にはお勧めできない。<br />
<br />
<br />
<br />
特にギデンズの章が目から鱗で、社会学史の流れをしって、ギデンズの再帰性の議論を追うとよく理解できる。<br />
<br />
以前レビューでおもしろくない！と書いた『親密性の変容』なんだけど、当時それを読んだときに、近代の特性を再帰性に求めるのが、読んでてすごく当たり前な気がして、緩慢この上なかったのだけど、パーソンズなどの議論を踏まえて、読むと、今のところ、ギデンズはしっくりくるんだなって思いました。<br />
<br />
<br />
<br />
各々の学者については、紙面上、そこまでつっこんで書かれてはいないので、ほんとに社会学史のお勉強にって感じの本でした。]]>
    </description>
    <category>社会学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%AB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%EF%BC%8F%E6%9C%89%E6%96%90%E9%96%A3</link>
    <pubDate>Tue, 13 Oct 2009 03:27:19 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>社会調査法入門／盛山和夫</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>お勉強。<br />
<br />
せっかく書いた記事がログインエラーで消えた。<br />
<br />
<br />
要するに、<br />
<br />
・冒頭に量的調査の誤解を解いている（量的調査に「解釈」もありえる）<br />
<br />
・帰無仮説の勘違いがとけて、ほかの概念の意味が明確にわかるようになった。<br />
<br />
・はじめから丁寧に読むことが大事。索引でたとえば&Chi;二乗検定だけ選んで読んでも理解不十分になる恐れあり。<br />
<br />
・確率の考えや統計分布の仕組み、検定の原理などがわかるようになる。<br />
<br />
<br />
<br />
初学者にはお勧めです。</p>]]>
    </description>
    <category>社会学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%B3%95%E5%85%A5%E9%96%80%EF%BC%8F%E7%9B%9B%E5%B1%B1%E5%92%8C%E5%A4%AB</link>
    <pubDate>Tue, 06 Oct 2009 03:23:24 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>友愛の歴史社会学／葛山泰央</title>
    <description>
    <![CDATA[卒論関係で読みました。<br />
<br />
なかなか難しいのですが、おもしろかったです。<br />
<br />
<br />
言説化される友愛を歴史社会学的に「普遍化される友愛」「稀少化される友愛」「凡庸化される友愛」と展開することを説明している。<br />
<br />
古代ギリシア社会で友愛が社会秩序を可能にするものと想定されていたのは、それが中心化れて考えられていたのだが、近代つまり「機能的に分化する社会」おいては、脱中心化し、友愛が社会秩序を可能にする原理にはなりえず、もっぱら私的な「社交的なもの」の中に追い込まれていった。<br />
<br />
<br />
ここからわかるように、本書はルーマンの『社会システム論の視座』をベースにしているようだ。<br />
<br />
この本も面白そうだし、あまり分量もないので読んでみたい。<br />
<br />
<br />
さて、手紙の言説空間において、手紙の交換という限定された閉じた関係性なのに、それが文書化されているが故に必然的に、それが第三者によまれる、第三者からの介入可能性を想定される。それゆえ、そのような言説空間では、友愛は普遍化される、つまり、理想化される。<br />
<br />
当然理想化された友愛は、自己破綻する。要するに、そんなもん奇麗事にしか過ぎないことは、それを言説化する当人が一番わかっているのだろう。<br />
<br />
<br />
そうすると、友愛を稀少化する。心情の吐露という形で友愛が言説化される。告白の言説だ。<br />
<br />
<br />
しかし、稀少化された友愛は、「真の友愛」で想定されない友愛関係を排除しはじめ、その「真の友愛」を志向するが故に、その希少性の凡庸さが露になり、自己破綻する。<br />
<br />
凡庸の友愛。それは、「真の友愛」を取り込むことで、凡庸化し、それを延々に繰り返すことになり、友愛は言説化されることで、凡庸の堂々巡りに陥ることになる。<br />
<br />
<br />
近代フランスにおける言説空間を分析の対象をしていて、言説分析の面白さと、歴史社会学のおもしろさを、本書は教えてくれた。]]>
    </description>
    <category>社会学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6/%E5%8F%8B%E6%84%9B%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%EF%BC%8F%E8%91%9B%E5%B1%B1%E6%B3%B0%E5%A4%AE</link>
    <pubDate>Tue, 06 Oct 2009 02:50:33 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>社会学の理論（有斐閣ブックス）</title>
    <description>
    <![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<a target="_blank" href="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/File/41G9FWSEZ4L__SL500_AA240_.jpg"><img alt="41G9FWSEZ4L__SL500_AA240_.jpg" align="middle" border="0" src="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/Img/1253173908/" /></a><br />
<br />
お勉強。<br />
<br />
有斐閣の社会学のテキストシリーズ。（と勝手によんでいる）<br />
（レビューにもかきたくない有斐閣アルマ『自己と他者の社会学』はくそすぎたが）<br />
<br />
<br />
行為の理論から社会変動へ、ミクロ理論からマクロ理論へ、例外の章もあるが、実にわかりやすく社会学の理論が整理され、説明されてある。<br />
<br />
<br />
社会学史のように社会学者ごとの章立ての本にみられるような冗漫な感じはなく、テーマごとに理論がまとめられているスタイルのほうが、哲学とは違い、社会学の場合は、初学者にはむいているのではないかと思う。<br />
<br />
<br />
今まではパーソンズやルーマンといった機能主義がどうも好きになれなかったし、理解もしていなかったが、本書を読んで、案外おもしろいなと思わされた。<br />
<br />
<br />
自分の関心のある章はすぐ読めてしまうが、おもしろみを感じることのできない章は睡魔との闘いであったが、自分が社会学のどの分野に興味があるのか、わかったような気がした。<br />
<br />
<br />
今までのつまみぐいの知識がやや広くなり、社会学のごくごく簡素な理論地図といったものを、頭に描けるようになった。（たとえば、パーソンズのような静態的な社会モデルと、闘争理論などに見られるような動態的な社会モデルなど）<br />
<br />
<br />
社会学的に社会を見るとはどういうことか、概説的に身に着けることができ、大学院入試のテキストとしては良書だと思う。<br />
<br />
<br />
今までの関心に加えて、ジンメル、ルーマン（以前じゃ考えられない！！）、「ポスト構造主義的社会理論」を学びたいと思った。]]>
    </description>
    <category>社会学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96%EF%BC%88%E6%9C%89%E6%96%90%E9%96%A3%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%EF%BC%89</link>
    <pubDate>Thu, 17 Sep 2009 07:48:07 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>物語とレヴィナスの「顔」／佐藤義之</title>
    <description>
    <![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　　　　　<a target="_blank" href="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/File/41NAF2M0B4L__SL500_AA240_.jpg"><img alt="41NAF2M0B4L__SL500_AA240_.jpg" align="middle" border="0" src="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/Img/1253173844/" /></a><br />
<br />
<br />
１、２ヶ月ほど前に読んだ本の感想。<br />
<br />
<br />
レヴィナスの解説ははじめの章だけで、後は著者独自の議論が進む。それはレヴィナスの顔の倫理（すべての倫理の基盤を「顔」にもとめる）と物語的倫理学への理論的橋渡しの可能性を探るといったもの。<br />
<br />
<br />
レヴィナスの「顔」の概念について、基本的にレヴィナスに即した形で議論が展開されるので、勉強になるし、また倫理学についての知識も参考になった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＊アマゾンへのアフィリエイトをやろうかと思ったが、なんかわからないけど、僕を知っている人にいろんなことが筒抜けになるのではないかとう、懸念のため、あまりアクセスもないうえ、わずかな副収入のために、そのようなリスクは犯さないようにしようと思う。]]>
    </description>
    <category>哲学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6/%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%A8%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%80%8C%E9%A1%94%E3%80%8D%EF%BC%8F%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%BE%A9%E4%B9%8B</link>
    <pubDate>Thu, 17 Sep 2009 07:33:30 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>リチャード3世／シェイクスピア</title>
    <description>
    <![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　　　<a target="_blank" href="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/File/51X3WM2NP8L._SL500_AA240_.jpg"><img alt="51X3WM2NP8L._SL500_AA240_.jpg" align="middle" border="0" src="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/Img/1252585436/" /></a><br />
<br />
シェイクスピアの初期の時代劇・復讐劇『リチャード3世』読みました。<br />
<br />
きっかけは、いくつかの本でリチャード3世がアナロジカルに使われているのを見て、読んでおこうというまじめなものです笑<br />
<br />
<br />
世界史の資料集をひっぱりだしてきて、プランタジネット朝、ランカスター朝、ヨーク朝の関係や血統の復習もしておきました笑<br />
<br />
ちなみにリチャード3世はヨーク家。<br />
<br />
<br />
なんというか展開がすごくはやく、時間がたつのを忘れて読んでしまった。<br />
<br />
敗れたランカスター家とチューダー家のいがみ合いと、ヨーク家内における内紛が、「呪い」という基本旋律で描かれている。<br />
<br />
夫と息子をリチャードに殺害されたランカスター家のマーガレットとヨーク家の掛け合い、夫エドワード4世が病死し、3人の息子（弱冠で殺害されたエドワード5世含む）と弟をリチャードに殺害されたエリザベスと、そのエリザベスの娘をめとろうとするリチャード３世の掛け合いが、言葉遊び、含蓄にとんでおり、テンポのよいもので唸らせるものがあった。このシーンはお気に入りであるし、当作品の見せ場でもあると思う。<br />
<br />
<br />
一方で権謀術数のマキャべリストであるリチャード3世、びっこでせむしというが、その策略たるや、おそろしく冷酷。<br />
<br />
自らが王位を手中に収めようと、腹心に身内を殺させるよう指示するが、その腹心までも裏切り、殺害する。<br />
<br />
めでたく、王位につけたものの、自分の意見にすこしでも躊躇するものを自分の地位を危ぶむものとして、今まで腹心であろうと、ばっさり殺してしまうのであるが、<br />
<br />
そこには、自分が容易に人を裏切っていたように、自分も計略によって裏切られるのではないかと、人を信用できず、猜疑心にさいなまれた王を哀れなものだという印象をもったが、その私の感情そのものも、私が良心をもつもであるがゆえであり、リチャードからいわせれば、良心は小賢しい足かせ、それは弱者の所有物なのである。<br />
<br />
彼は亡霊の呪いにより、自らの罪を後悔し、懺悔を始めるかと思いきや、良心を臆病者だと断じ、自らが高みを目指すための権謀術数を妨げる、煩わしいものとして退けるのである。<br />
<br />
<br />
最終的にリチャード3世はのちのヘンリー7世であるリッチモンドに殺されることで「復讐」が達成し、エドワード4世の娘エリザベス（リチャードが求婚？した）と結婚し、ランカスター家とヨーク家は和合し、チューダー朝（ヘンリー7世の父はリッチモンド伯エドモンド・チューダー）の治世の開始で本劇は終わるのである。<br />
<br />
<br />
解説にもあったように、本作品ではさまざまな人物が殺されるが、劇中で実際に殺害シーンが演じられるのは、クラレンス公（リチャード３世の次兄）とリチャード３世のみである。<br />
<br />
クラレンス公は劇のはじめに、リチャード３世は劇の終わりに殺害されるのが、劇に対象性を与えるものとなっている。<br />
<br />
<br />
　　ああ、生きた人間のかりそめの愛顧を、神の恩寵にもまして、懸命に追い求めるあさましさ！<br />
　　他人の笑顔にひたすら希望をつなぐ男は、マストの上に酔っ払った舟乗りも同然、舟が揺れるたびに、いつ放りだされて、深い水底に引き込まれるかしれたものではない。<br />
<br />
<br />
これはリチャードに裏切られた腹心のヘイスティングズの嘆きである。<br />
<br />
王位継承の内紛に、身内忠臣関係なく、明日いつ誰が自分の敵になるやもしれなぬという、悲劇を如実にあらわしているように思う。]]>
    </description>
    <category>文学作品</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E6%96%87%E5%AD%A6%E4%BD%9C%E5%93%81/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%893%E4%B8%96%EF%BC%8F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2</link>
    <pubDate>Thu, 10 Sep 2009 12:18:18 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>カラマーゾフの兄弟／ドストエフスキー</title>
    <description>
    <![CDATA[&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<a target="_blank" href="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/File/31TV5ADQ12L._SL500_AA171_.jpg"><img alt="31TV5ADQ12L._SL500_AA171_.jpg" align="middle" border="0" src="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/Img/1252583135/" /></a><br />
<br />
<br />
<br />
久々の更新です。<br />
<br />
ドストエフスキー長編『カラマーゾフの兄弟』を読みました。<br />
<br />
俺的に『罪と罰』よりかは読みやすいかなとは思ったけど、そこで著者が論じていることは当時のロシア社会、とりわけ知識人階級が先導したところによる、大きな問題の核となる部分を鋭い考察したもので、テーマとしてしては『罪と罰』よりかはより広範で、より普遍性を持った問題なのではないかと思った。<br />
<br />
それの概要について、俺がこの場で説明し、自分の意見を披露するには、今一度当該箇所を読み直し、色々検討するという作業が必要だが、今ひとつそのような技量そしてそれをなしえる時間を当方持ち合わせていないゆえ、割愛するが、それにまつわるほんの印象の紹介と、べつに俺の個人的な論点から『カラマーゾフの兄弟』を解題（かなりおおげさだが）してみたいと思う。<br />
<br />
<br />
ロシアは地理的にヨーロッパに使い分、といってもペテルブルクやモスクワに限ってだが、絶えず影響を受けてきた。<br />
<br />
本作品を読んでいると、わが母なる大地ロシア、といったような表現に見られるように、ロシアという広大な土地と、ロシア人として民族意識が不可分に結びついており、解説にもそれが「スラブ的」と書かれてあった。<br />
<br />
ロシア正教という価値観のもとで培われてきた「ロシア的」なものが危機に瀕している。<br />
<br />
というのは、ロシアの知識人階級の多くは、ヨーロッパ的なもの、とりわけフランスの思想の影響を強く受け、「自由」「平等」という観念の虜になっていた。<br />
<br />
民衆は相変わらず「ロシア的」であり、正教を重んじてはいるが、社交界などでは、「新しい思想」に大きな期待をよせるものたちの様子が描かれている。<br />
<br />
ヨーロッパ的な価値観と従来のロシア的な価値観の葛藤の中、多くの知識人は無神論的、共産主義的なイデオーグに染まっていくこととなる。<br />
<br />
とりわけ、次兄イワン・カラマーゾフはこの典型である。<br />
<br />
それに対して、末っ子のアリョーシャは修道院の見習い僧（？）で旧来のロシア正教の価値観をもつ「神がかり行者」として描かれている。<br />
<br />
しばし、この二人は神の所存、認識をめぐって、（イワンの「大審問官」は特に有名でこれが本書の核にあたるともいわれる）、激論を交えている。<br />
<br />
当のドストエフスキーはというと、アリョーシャの意見が彼のそれに当たると思うのであるが、『罪と罰』の結末よろしく、キリスト教的価値観、つまり民衆がロシアを救うと考えている。<br />
<br />
詳細は省略するが、<br />
<br />
進歩主義的な価値観と全体主義的な土着のキリスト教的価値観の相克、互いに相反する大きな価値観がぶつかり合うダイナミズムが、それぞれのそれぞれに対する議論の要がわかりやすい形で、鋭く語られ、描かれている様子が読んでいて実におもしろかった。<br />
<br />
<br />
私自身は、キリスト教を信じているというか、それにすがって生きているものなので、ものすごく精神に応えた箇所でもあったが、その辺について、精神的に優れた時期に、読み直し、自分の意見を述べることにしたいと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
長兄のドミートリ・カラマーゾフについて、もっぱら、彼は「カラマーゾフ的」だとされる。<br />
<br />
彼は、自分の気高き信念をとことん固執し、貫く高潔さ　と同時に、それが破滅への道に至るとわかりつつも、それを自己破壊の道を選らんでしまう<br />
<br />
というアンビバレントな性格をもつ青年として描かれている。<br />
<br />
父のフョードル・カラマーゾフの放蕩さも持ち合わせてはいるものの、気高き率直さ、神聖的ともいえる高潔さを同時に持ち合わせているのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
このアンビバレントな感情は、つまり、自分に関わるあらゆる道徳的義務を全うしたいと願う思いと自己が破壊することを受け入れ、一種の自己破壊に伴う陶酔、というアンビバレントな感情は誰しも多少は持っているのではないか。<br />
<br />
全人類のために理想高く、志を燃やし、そのための道徳的義務も自ら引く受けるとする気概。<br />
<br />
これはあらゆる人が持つのではないか。<br />
<br />
私に言わせれば、この感情の強い人間のうち、身近な日常の道徳的義務をなおざりにするようなもの、つまり、普遍性のためになら、理念のためになら、命もかけるか、具体性にはそっぽを向くという人。<br />
<br />
これは案外日常多く見かける気がする、例えば国際ボランティアをして、恵まれない人のために自分の一生をささげたいという志を持ちつつも、実際ボランティアにいって「今」それをすることを避けようとし、仮にしても、精神すり減らしてこんなんと思ってなかったという、今に生きず理想を生きるもの。<br />
<br />
<br />
一方で、自己破壊的行動。<br />
<br />
それを、放蕩を「カラマーゾフ的」な血のせいだと正当化し、知らぬ間に父と同じ徹を踏むという、<br />
<br />
いやむしろ「血」というのはそれが自己破壊的なものであれ、卑劣漢なものであれ、恐ろしく心理的な安定をもたらせる。<br />
<br />
<br />
それゆえ、自ら自己破壊的な行動をとるというドミートリは、単純に、自己破壊的行為への憧れという程度の差こそあれ誰しも持っているであろう心理的特徴に一義的に還元すべきではなく、そこにはなまぐさい血のもたらす効果も加味されるべきであるというより、それが第一義的であるとすら思う。<br />
<br />
<br />
私の個人的な血筋からも、ドミートリ・カラマーゾフのこのような傾向にいたく共感しながら読んだものであった。<br />
<br />
<br />
この二つの心理的特徴をすべての人間が共有するのかいなかはわからないが、当時の退廃したロシア社会のひとつの表象として捉えるべきであろうか、それとも、ポストモダンを生きる現代において、何かしらの一般的特徴をもつ行動となって現れえるものとしての、観察すべき、普遍的なものと捉えるべきであろうか。]]>
    </description>
    <category>文学作品</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E6%96%87%E5%AD%A6%E4%BD%9C%E5%93%81/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%95%E3%81%AE%E5%85%84%E5%BC%9F%EF%BC%8F%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC</link>
    <pubDate>Wed, 09 Sep 2009 17:26:53 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>啓蒙の弁証法／ホルクハイマー・アドルノ</title>
    <description>
    <![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<a target="_blank" href="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/File/4126UzUd1oL__SS500_.jpg"><img alt="4126UzUd1oL__SS500_.jpg" align="middle" border="0" src="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/Img/1247415055/" /></a><br />
<br />
<br />
久しぶりの投稿です。その間に何冊が読みましたが、ホルクハイマー・アドルノ共著の『啓蒙の弁証法』をよみました。<br />
<br />
２章のオッデュセイアの神話の寓意の解釈は比較的わかりやすかったですが、なかなか難解な著作だと思います。<br />
<br />
反ユダヤ主義と手記の章はまだ読んでいないのですが、読んだら、またつけたします。<br />
<br />
<br />
フランクフルト学派の古典的名著で、道具と化した理性が野蛮を導く道程を、啓蒙は神話に退化し、近代社会の野蛮性が立ち現れている過程として、哲学的に叙述されています。<br />
<br />
副題に、哲学的断想とあるように、どの章も断片的な箇所があって、なかなかすっと理解できない点でも、読みにくく、難解とされているゆえんでもあります。<br />
<br />
<br />
とりあえず、文学部の演習で発表したレジュメの一部を貼っておきます。<br />
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 21pt; text-indent: -10.5pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 18pt; text-indent: -18pt"><span>◎<span style="font: 7pt 'Times New Roman'">&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span></span><b>『啓蒙の弁証法』について</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 17.95pt; text-indent: 10.5pt">ホルクハイマーとアドルノの共著。1947年出版　1939年から44年にかけて執筆された。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 52.5pt; text-indent: -52.5pt">　　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 52.5pt; text-indent: -52.5pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 52.5pt; text-indent: -52.5pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 17.85pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 10.55pt"><b>・構成</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 52.5pt; text-indent: -31.5pt">「Ⅰ啓蒙の概念」で理論的基礎が述べられており、Ⅱ～Ⅵ章は各論となっている。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 52.5pt; text-indent: -31.5pt">Ⅱ章ではオデュッセイア論として神話の寓意が、Ⅲ章ではサド論として道徳の根</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 52.5pt; text-indent: -31.5pt">拠が、啓蒙の＜光＞と＜闇＞を理論軸に検証されている。Ⅳ章ではアメリカ大衆</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 52.5pt; text-indent: -31.5pt">文化、Ⅴ章ではナチスら反ユダヤ主義を徹底的に批判している。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 10.55pt"><b>・理論的基礎の趣旨</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 21pt; text-indent: -21pt">　　　序文で第一論文は「すでに神話が啓蒙である。」「啓蒙は神話に退化する。」の二つのテーゼに要約されるとあるので、それを簡単に説明しておく。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 21pt; text-indent: -21pt">　　<b>「すでに神話が啓蒙である。」</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt">：啓蒙とは、世界を呪術から解放し、計算可能性や有用性を基準とする、合理化、記号化、文明化である。今や思考と数学を同一視する、実証主義的なものとなった。しかし、その啓蒙は神話から生まれた。神話は叙述し、確認し、説明を与えようとする、言語によって組織化された総体でもある。神話の言語的組織化が啓蒙の進展過程の動因となった。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　<b>「啓蒙は神話に退化する。」</b></div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.6pt; text-indent: -31.6pt"><b>　　　</b>：数学的方法によって、啓蒙は思考を道具にしてしまう（計算できるものが合理的なものであるとされ、考えることをやめることによって、理性の道具化がおこる。）道具化された理性は自己保存という目的のために、自然を操作対象とする。一方で、論理的に説明が出来ないということは、啓蒙にとって非常に不安であり、恐れである。支配の道具として命令か服従のいずれかを選ぶしかない、思考は自己を批判、反省することを忘れてしまった、そのことによって、一種の野蛮状態である近代社会が生まれ、神話に退化するのである。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 18pt; text-indent: -18pt"><span>◎<span style="font: 7pt 'Times New Roman'">&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span></span><b>Ⅳ文化産業－大衆欺瞞としての啓蒙</b>（pp249-348）</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 17.95pt">アメリカ大衆文化の徹底的批判。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 18pt"><span>&nbsp;</span>＊今日の文化</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 42pt">・　類似的。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 60pt; text-indent: -18pt"><span>・<span style="font: 7pt 'Times New Roman'">&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span></span>資本の独占態勢の下で同一であり、独占によって大量生産された概念的骨格が正体を現す。内容的には代わり映えのしないものが、形だけ新しい衣装をまとって現れてくる。画一化された内容。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 31.5pt">&rarr;個人は全体的な資本の力に屈従する方向に向かう。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 21pt">＊映画やラジオは芸術と自称する必要がなく、産業と名乗る。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 42pt; text-indent: -42pt">　　　&larr;映画やラジオが金儲けであるという真理が逆にそれらを美化するイデオロギーとなる。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　　&larr;複製方式を取らざるをえない。平均化された規格製品の供給。大量生産。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 21pt">＊文化産業の技術における合理性は、支配の合理性である。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　　それによって、かつてあった制作の論理も社会体制の論理の区別もなくなる。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt"><span>&nbsp;</span>　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　＊「技術的人的機構それ自体の持つ固有の重み」</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 42pt; text-indent: -42pt">　　　・製作の執行権を握っているものの消費者像や、彼ら自身（の考えや好み）に合わないと考えるものが、製作するときの決断として共有されている。　　　　どんな細部に至るまで、何が禁止され、何がカットされるかあますところなく統轄されている。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 42pt">&larr;それに対して、「すべての人は民主主義的に一律と聴衆と化し」ている</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 42pt; text-indent: -42pt">　　　　しかし、この聴衆の本質は文化産業の体制を事実上支えているので、免責されない。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 42pt; text-indent: -42pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　＊外界は映画（トーキー）の中の世界の延長であるかのように錯覚させることが容易に可能となった。トーキーは観客を訓練して、映画の出来事と現実の出来事を同一視するように仕向ける。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　&rarr;観客たち想像や思考を働かせる余地を奪い、その客観的性質によって、文化消費者の想像力や自発性を萎縮させ、麻痺させる。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　　ここで、求められる注意力は、映画などの文化製品に自動的に随伴するほどに、身についたものである。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 21pt; text-indent: -21pt">　　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt">このようにして、文化産業の作品の一つ一つは、全文化産業が当てはめようとした型どおりの人間を再生産し、経済的巨大機械装置のモデルとなっている。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 21pt">＝「全世界が文化産業のフィルターをつうじて統率される。」という事態</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　＊芸術作品の約束</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　　＝芸術作品は、伝統として伝えられてきた諸様式のうちに作品という型を押す。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　　しかし、偉大なる芸術家は様式に対する不信を持ち、否定的真理として取り入れた。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　芸術が現実を超越する際、現実の諸様式とは切り離すことはできず、その様式（同</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -10.5pt">一性）と対決し、「差異」を持つことで達成される。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　 &hArr;薄弱な作品（大衆文化作品）</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　　ほかの作品の類似性、同一性の代用物にしがみついた画一的なもの。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　　同一性に陥ってしまっている。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　　文化産業はイミテーションを絶対化している。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 73.5pt; text-indent: -73.5pt">　＊芸術作品：欲望の対象は断念された形で造形されるが、断念されたものとして充足を描き出す。美的昇華。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt"><span>&nbsp; </span>　文化産業：昇華される前の欲望を煽り、それ以上はそそのかされる。抑圧。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 73.5pt; text-indent: -73.5pt">　　　　　　　ここでは規格化されたモデルを個性として偶像視することで、美の機械的再生産に仕えることになる。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　＊「人々は何を欲しているか」</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -31.5pt">　　これは、一見人々が思想の主体であるように呼びかけているが、狙いは人々から</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -10.5pt">主体性を奪うことにある。文化産業は消費者の欲求を支配する。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -10.5pt">この傾向は、娯楽には押し売りめいた要素があることからわかるように、娯楽は</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 31.5pt; text-indent: -10.5pt">商売とは切ってもきれない関係を有しているという娯楽の原理に内在している。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 21pt; text-indent: -10.5pt">＊主体性を奪われた人々（消費者達）は同時に、文化商品に対して、自分自身を、情動の内部までも、文化産業が提供するモデルにもあった装置に仕立てるという形で、ミメーシス（模造）を強制される。</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">&nbsp;</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 28.5pt; text-indent: -18pt"><span>＊<span style="font: 7pt 'Times New Roman'">&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </span></span>まとめ</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt">　　文化産業の発達により、同一性に陥ってしまった、差異をもたない大衆文化作品　</div>
<div style="margin: 0mm 0mm 0pt 10.5pt; text-indent: -10.5pt">　が大量に生産される。それらは類型にはめられたものであるため、消費者の思考を麻痺させ、類型的に美も機械的に再生産される。文化産業は人々の欲求をも支配し、人々は主体性を奪われ、提供された類型の模造となることを強制される。文化産業における合理性はそういった支配の合理性であり、画一化された没個性という「野蛮状態」へと導く。</div>]]>
    </description>
    <category>社会学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6/%E5%95%93%E8%92%99%E3%81%AE%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95%EF%BC%8F%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E</link>
    <pubDate>Sun, 12 Jul 2009 16:08:42 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>親密性の変容／アンソニー・ギデンズ</title>
    <description>
    <![CDATA[他者の代替不可能性にかねてから興味を持っていたので、本書は、親密性というものが歴史的にどのように変容していたのかという歴史社会学的な視点で論じられているでいるのであろうという目論見のもとで読みました。<br />
<br />
目次に、同性愛者の問題についても触れられていたので更に興味を持ったのです。<br />
<br />
ギデンズのいう親密な関係性が漠然としていてわかりにくい。<br />
<br />
<br />
まあでも、生殖とセクシャリティがどう切り離されていったか、女性同性愛者のくだりと女性の性の革命、男らしさ女らしさなど読み物としては面白みがあると思った。<br />
<br />
その場限りのセクシャリティを論じたところで、同性愛者の節操のなさが、異性愛者のセクシャリティのあり方を先取りしている等々の議論も面白みがあったかな。<br />
<br />
<br />
ただ民主制とセクシャリティとか、モダニティがどうとか、主張がわかりにくいのと、そういうマクロ社会学や文明論的な話と、心理学的な話が、章をまたがっているとはいえ、ごちゃごちゃしている印象をうけた。結局、このおっさんは何がいいたいんやろうと・・・<br />
<br />
<br />
要約はこちら<br />
<br />
<a href="http://www.arsvi.com/b1990/9200ga.htm">http://www.arsvi.com/b1990/9200ga.htm</a><br />
<br />
<br />
『有毒な親』は読んだことあってへ～って思ったし、共依存の社会学的意味もまあまあおもろかった。<br />
<br />
<br />
でも、フーコー、フロイト、マルクーゼ等々、ちゃんと読んだことないから、そのへん読んでかた読んだら、もっとすっきりわかるんやろなって思った。<br />
<br />
はい、勉強不足です・・・<br />
<br />
<br />
さ、頑張ろうっと～<br />
<br />
<br />
この本について、内容まとめてないし、エッセイも書いてないけど、またやろか。<br />
<br />
正直、あんまり、好きな論のもっていきかたではなかった・・・]]>
    </description>
    <category>社会学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6/%E8%A6%AA%E5%AF%86%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9%EF%BC%8F%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%BA</link>
    <pubDate>Sun, 21 Jun 2009 15:50:02 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>フッサール　起源への哲学／斎藤慶典</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; <a target="_blank" href="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/File/258240-1.gif"><img alt="258240-1.gif" align="middle" border="0" src="//kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/Img/1242569364/" /></a><br />
<br />
卒論関係で、シュッツの勉強をしようと思って、とりあえず、現象学の入門のためにと思って読みました。<br />
<br />
フッサールの概説書というよりも、斎藤先生の独自の視点からフッサールを読み解いているという感じで、入門書という感じではなかったですが、だいたい現象学の&rdquo;ニュアンス&rdquo;が漠然とわかりました。<br />
<br />
内容はカードにメモしてあるので、折り入って書くことはないですが、現象そのものへという起源への問いが、想像力、身体としての私、世界、時間と様々な問題系へと収斂されていくのが鮮やかに描かれていて、おもしろいです。<br />
<br />
単純な問いが徐々に洗練させていく、その営みが哲学であるということがよくわかると思う。<br />
<br />
最後の方の「空」とか「絶対的に未知なるもの」のくだりはもはや意味不明でしたが。<br />
<br />
とりあえず、巻末に現象学の入門書として紹介されている本や、シュッツを読まないといけないと思うわけであります。</p>]]>
    </description>
    <category>哲学</category>
    <link>https://kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6%EF%BC%8F%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%85%B6%E5%85%B8</link>
    <pubDate>Sun, 17 May 2009 14:07:25 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">kazumemodokusyo.blog.shinobi.jp://entry/17</guid>
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